和碩和婉公主
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和碩和婉公主 | |
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続柄 | 和親王弘昼長女 |
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称号 | 和碩和婉公主 |
身位 | 和碩公主 |
出生 | 雍正12年(1734年)6月24日 |
死去 | 乾隆25年(1760年)3月17日 |
父親 | 和親王弘昼 |
母親 | 呉扎庫氏 |
和碩和婉公主(わせきわえんこうしゅ、雍正12年(1734年)6月24日 - 乾隆25年(1760年)3月17日)は、清の公主で、乾隆帝の養女。実父は和親王弘昼。生母は嫡福晋(正室)の呉扎庫(ウジャク)氏。
生涯
雍正12年(1734年)6月24日に生まれた。生母は嫡福晋烏札庫氏。乾隆帝の初年には寿康宮の太妃に養育されたが、内閣大庫の記録では寧寿宮で養育された公主と記されている。年齢が第三皇女(後の固倫和敬公主)よりも年下であったため、「四公主」と呼ばれていたが、乾隆16年(1751年)に嫁いでから正式に「和碩和婉公主」と改称され、その後の「四公主」の称号は、後に生まれた和碩和嘉公主に引き継がれた。
乾隆15年(1750年)2月、巴林郡王博爾済吉特氏の璘沁の子、德勒克に嫁ぐことが決まった。同年11月17日巳の刻(午前9〜11時頃)に婚約の儀(初定礼)が行われ、12月16日寅の刻(午前3〜5時頃)に結婚式(成婚礼)が行われた。公主の嫁入り道具である朝帽(礼帽)、かんざし、指輪などの装飾品は、和碩公主の例に従って準備された[1]。この年の宮中の記録では、四公主の下には祥格、敦格、蘭格、銀格、春秀、多秀の6人の女官が仕えていたと記されている。
乾隆25年(1760年)3月17日、27歳の若さで公主は薨去した。夫である額駙(公主の夫の称号)德勒克は、乾隆48年(1783年)になってようやく「貝子(親王に次ぐ爵位)」に昇格し、乾隆59年(1794年)に亡くなった。
参考文献
- 『清史稿』
- 『乾隆十五年記事録』
参考資料
- ^ 『乾隆十五年記事録』
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