博多高砂館
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博多高砂館(はかたたかさごかん)は、明治35年(1902年)に福岡県福岡市東中洲に建設された木造八角形八層楼(高さ約30メートル)の高層建築である。博多における近代的娯楽建築の先駆けであり、博多の繁華街・東中洲の発展に寄与したとされる [1] [2]。
概要
明治35年1月下旬、東中洲の旧県立福岡病院跡地(約120坪)に、高さ30メートルに及ぶ八角形・八層楼の巨大建築が突如として出現した。博多では前例のない高層建築であり、地元の人々を驚かせたという。 この「博多高砂館」を企画・建設したのは、漬物商「金山堂」を営んでいた八尋利兵衛であり、彼の卓越した発想力と行動力が中心となった。協力者には、仁和加師の平川梅吉(号:ペン梅)をはじめ、石蔵秀次郎・高井善四郎・平井久作・秋武利一らが名を連ねた。
建設の趣旨は、菅原道真を祀る太宰府天満宮の「菅公一千年祭」に協賛するもので、県から半年間の借地許可を得て建設された。構造は柱を組み上げた簡易なバラック式であったが、博多で初の高層建築として注目を集めた。上棟式は明治35年2月2日に行われ、会場の3階には官庁関係者、新聞記者、有志など約150名が招かれた。式後には博多券番芸妓による舞踊、音楽演奏、素人長唄、畳屋組・麩屋組の仁和加などの余興で賑わった [1]。
総建築費は約3000円であったが、八尋利兵衛は巧みな宣伝策を用いた。建物の外壁に「大学目薬」や当時販売促進中の酒・タバコなどの広告看板を張り巡らせ、広告料をもって費用の一部を補填した。また、各階を商品陳列場として貸し出し、使用料と入場料を合わせて経費を賄ったとされる。最上階には「博多眺望園」と名付けられた展望台が設けられた[2]。高所からの景色を初めて目にした博多人は、「テェーガツテー、ドージヤロカイ」と感嘆の声を上げたという [1]。
館内では各種催しも行われ、名古屋の源氏説芝居、岡本美司代一座の公演、さらには土佐の闘犬興行なども行われた。借地の契約期間は半年であったため、夏には解体されたが、その存在は東中洲の歓楽街形成に大きく寄与したといわれる。その跡地にはのちに九州最大級の劇場「寿座」が建設された。
なお、名称「高砂館」は、関係者の中に「博多高砂連」の人々が多く含まれていたこと、また高砂連の創立10周年を記念する意味を込めて命名されたものである [1]。 建物の高さは約30メートルで、当時の浅草十二階(凌雲閣)に触発されて建設されたといわれる。8階には望遠鏡が設置され、「志賀島が目の前に見える」との宣伝文句で人気を博した[2]。
八尋利兵衛は、明治12年に博多で「せいもん払い(歳末感謝市)」を始めた商人としても知られ、また博多商人の協力を得て「向島住吉遊園地」を建設するなど、博多の興行・商業文化に多大な影響を残した [1]。
参考文献
- 『思い出のアルバム・博多、あの頃:明治・大正・昭和を綴る』(葦書房、1977年、p.23)
- 『博多中洲ものがたり 前編(弥生より明治末年までの変遷)』(文献出版、1979年、p.245)
脚注
外部リンク
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