劉聰とは? わかりやすく解説

劉聡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 02:20 UTC 版)

劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代前趙の第3代皇帝。字は玄明。別名を劉載という[1]新興郡(現在の山西省忻州市)の出身。光文帝劉淵の四男である。母は側室の張夫人(後に光献皇后に追尊された)。兄に劉和劉恭、弟に劉裕・劉隆・劉乂がいる(劉恭以外は異母兄弟)。長兄の劉和を殺害して帝位を継ぐと、八王の乱と異民族の流入により疲弊した西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、華北に覇を唱えた。その一方、次第に女色に耽って政治を顧みなくなり、数多くの忠臣を殺害して佞臣を重用した。これにより大いに国力を疲弊させ、漢帝国崩壊の原因を作った。


  1. ^ a b 晋書載記第2 劉聡載記
  2. ^ 『晋書』卜珝伝では「卜珝の兵が先に撤退したために、靳沖は卜珝を捕らえて処刑した。劉聡は激怒して、使者を送って靳沖を処刑した」と記載されている。しかし、劉聡載記ではこれより後の、太原攻撃中に靳沖は卜珝を斬り、劉聡が靳沖を処刑することになっている。


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