公文重忠
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 正廣、通称:深三郎 |
官位 | 将監 |
主君 | 天竺花氏→長宗我部国親 |
氏族 | 石谷氏→公文氏 |
父母 | 父:石谷重信、養父:公文正信 |
兄弟 | 重忠、下田頼隆、横山友隆 |
公文 重忠(くもん しげただ)は、戦国時代の武将。天竺氏、長宗我部氏の家臣。
略歴
細川氏の庶流・天竺氏の家臣である石谷重信の子として誕生。
後に同じく天竺氏の家臣で土佐国香美郡[1]徳善(とくぜ)城主・公文正信の養嗣子となる。
天文16年(1547年)、長宗我部国親により大津城を攻略され主君・天竺孫十郎花氏が滅ぼされると、実父や弟・横山友隆らと共に抵抗するものの、降伏し家臣となった。勇猛な武士で多くの戦で功があったと伝わる。後に大坂の陣で長宗我部氏が没落すると、公文氏は帰農して土着したとされる。公文式の創始者の数学者の公文公や、社会学者の公文俊平は後裔にあたる。
貧乏で正月の餅つきが出来なかったため、城下ではそれが恒例となったという伝承がある。
脚注
固有名詞の分類
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