倉地満済とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 倉地満済の意味・解説 

倉地満済

(倉地政之助 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 14:02 UTC 版)

倉地 満済(くらち まずみ、寛保元年(1741年) - 文化5年(1808年))は、江戸幕府旗本御庭番[1]。通称は、政之助。父は紀州徳川家の家臣・倉地文大夫忠利、母は同家の家臣・山田清之宇右衛門某の娘。倉地忠見の養子となって跡を継いだ[1]

妻は、「江戸の三美人」の1人として名を知られた笠森お仙[2]。『寛政重修諸家譜』では、政之助と同じ御庭番・馬場善五兵衛信冨の娘[1]となっており、倉地家7代目倉地茂雄の「御庭番の家系」(『歴史と旅』昭和58年9月号、秋田書店)によれば、この「馬場善五兵衛信冨の娘」がお仙であるという[3]

政之助の次男の次郎八(別名:文平、新平)は、文化4年(1807年)11月25日に倉地家分家の初代当主となる[4]

略歴

宝暦7年(1757年)3月15日、将軍徳川家重に御目見を果たす。同年4月18日に小十人格御庭番になる[1]

明和2年(1765年)6月3日、25歳で家督を継いで御庭預となる。同3年(1766年)8月5日、御休息御庭之者支配となる[1]

寛政元年(1789年)12月、「御庭番家筋の面々廿七(27)人」の1人として「厚き御主意」を仰せ渡される[5]

寛政6年(1794年)7月11日、金奉行に転ずる[1]

文化5年(1808年)に死去[6]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『新訂 寛政重修諸家譜』第二十 株式会社続群書類従完成会、24頁。
  2. ^ 「笠森お仙」『国史大辞典』第3巻 吉川弘文館、255頁。
  3. ^ 「倉地政之助」清水昇『江戸の隠密・御庭番』 河出書房新社、141頁。
  4. ^ 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』第2巻 東洋書林、1017-1018頁。深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』 中公新書、28-29頁。清水昇『江戸の隠密・御庭番』 河出書房新社、134頁。
  5. ^ 深井雅海『江戸城御庭番 徳川将軍の耳と目』 中公新書、55-56頁。
  6. ^ 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』第2巻 東洋書林、1016頁。

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  倉地満済のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

倉地満済のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



倉地満済のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの倉地満済 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS