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于頎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/21 08:52 UTC 版)

于 頎(う き、726年 - 799年)は、唐代官僚は休明。本貫河南府洛陽県[1][2]

経歴

済王府倉曹の于庭謂の子として生まれた。北周の上柱国の于寔の子の于象賢の五世の孫にあたる。若くして官吏の事務に熟達していることで知られ、官を歴任して京兆府士曹に任じられた[3][2]乾元2年(759年)、史翽が襄州刺史・山南東道節度使として出向する[4]と、于頎は御史となり、判官をつとめた[5][2]。乾元3年(760年)、史翽が襄州の反乱兵により殺害される[6]と、于頎はその遺体を収容して葬った[5][2]

度支使の第五琦が河東租庸使となると、于頎は鳳翔少尹・度支郎中・兼御史中丞・転運租庸糧料塩鉄等使に任じられた。汴州が頻繁に兵乱に遭遇して銭帛を失っていたことから、于頎は転運汴州院を河陰に移すよう上奏した。元載が諸道営田使となると、于頎はその下で郎官をつとめ、東都洛陽汝州屯田を開いた。戸部侍郎・秘書少監・京兆尹太府寺卿を歴任した[5][2]大暦8年(773年[7]、杜済に代わって京兆尹となった[5][2]

元載が失脚すると、于頎は鄭州刺史として出向した。建中2年(781年)、河南尹に転じたが、統治の成績が悪く召還された。ときに汾州刺史の劉暹が御史大夫となることが予定されていたが、宰相の盧杞は剛直な劉暹が御史大夫となることを恐れ、柔弱でくみしやすい于頎を御史大夫に推薦した。建中4年(783年)、于頎は徳宗につき従って奉天に赴き、左散騎常侍の位を受けた。左千牛衛上将軍を経て、大理寺卿・太子少保・工部尚書に転じた。入朝して地に倒れ、金吾衛に助け起こされたため、太子少師に転じて致仕した[5][2]貞元15年(799年)3月辛未、死去した[8]。享年は74[5]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3965.
  2. ^ a b c d e f g 新唐書 1975, p. 4800.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3965–3966.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 257.
  5. ^ a b c d e f 旧唐書 1975, p. 3966.
  6. ^ 旧唐書 1975, p. 258.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 302.
  8. ^ 旧唐書 1975, p. 390.

伝記資料

参考文献




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