亀永吾郎
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亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。 山口県下関市出身。[要出典] 鏑木清方門下。[要出典] 本名五郎。[要出典]
帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会、目黒雅叙園、梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。[1]
度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。郷土の風物にも親しみ、のびのびとした生命感を写し取った。[要出典]
経歴
- 1890年(明治23年)6月1日 - 山口県下関市吉見に亀永徳太郎、トヨの三男として生まれる。[要出典]
- 1919年(大正8年)ごろ - 兄陽康を頼って上京、鏑木清方に入門。[要出典]
- 1923年(大正12年) - 第8回郷土会展(日本橋高島屋)に「鎌藤西南戦話」を出品。[要出典]
- 1924年(大正13年) - 第9回郷土会展に「豊作の舞」を出品。[要出典]
- 1925年(大正14年) - 第10回郷土会展に「千住大橋」を出品。[要出典]
- 1926年(昭和元年)
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)
- 1930年(昭和5年) - 山本トメと結婚。青山高木町に居住。[要出典]
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)7月 - 長女和子誕生。品川区大井に居住。[要出典]
- 1934年(昭和9年) - 伯林(ベルリン)日本画展覧会(外務省による日本美術紹介 ドイツベルリンにて)に出品。[要出典]
- 1937年(昭和12年) - 次女効子誕生。トメの実家(佐渡)に預ける。[要出典]
- 1938年(昭和13年)
- 1944年(昭和19年) - 長女和子を佐渡に疎開させる。疎開先の中山旅館に多くの画を残す。[要出典]
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)ごろから - 東京と下関を往復し制作。[要出典]
- 1947年(昭和22年)
- 1950年(昭和25年) - 下関大丸の展覧会に出品。[要出典]
- 1955年(昭和30年)2月9日 - 没(64歳)。[要出典]
- 1995年(平成7年) - 目黒雅叙園美術館での装飾博覧会で、「扇取」、旧松の間の美人画ほか、計十数点展示される。同展案内チラシ両面に、作品が採用。[要出典]
- 2004年(平成16年) - 下関吉見にて五十回忌。[要出典]
- 2005年(平成17年) - 「扇取」、旧松の間の美人画が海外に渡る。[要出典]
- 2018年(平成30年)
- 2019年(平成31年)
脚注
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