亀永吾郎とは? わかりやすく解説

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亀永吾郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 05:52 UTC 版)

亀永 吾郎(かめなが ごろう、1890年(明治23年)6月1日 - 1955年(昭和30年)2月9日[要出典])は、日本画家(美人画)。 山口県下関市出身。[要出典] 鏑木清方門下。[要出典] 本名五郎。[要出典]


帝展入選、聖徳太子奉賛美術展覧会、ベルリン日本画展覧会(外務省)に出品。鏑木清方門下らによる郷土会目黒雅叙園梨本宮家、浅草柳橋料亭二葉などで多くの絵画を手がけた。独特の、美人と所作と構図、滲み出る人物の精神性や内面性、繊細な色彩と形の組み合わせの自在さ、に特徴がある。画号は、寒雷楼吾郎、寝石、八千房、亀永霊泉。[1]

度重なる戦災に遭い帰郷するも、その後も東京と郷里を往復しつつ、制作に取り組んだ。郷土の風物にも親しみ、のびのびとした生命感を写し取った。[要出典]

兄は川合玉堂門下の日本画家の伊藤響浦(陽康)。[要出典]

経歴

  • 1890年(明治23年)6月1日 - 山口県下関市吉見に亀永徳太郎、トヨの三男として生まれる。[要出典]
  • 1919年(大正8年)ごろ - 兄陽康を頼って上京、鏑木清方に入門。[要出典]
  • 1923年(大正12年) - 第8回郷土会展(日本橋高島屋)に「鎌藤西南戦話」を出品。[要出典]
  • 1924年(大正13年) - 第9回郷土会展に「豊作の舞」を出品。[要出典]
  • 1925年(大正14年) - 第10回郷土会展に「千住大橋」を出品。[要出典]
  • 1926年(昭和元年)
    • 第11回郷土会展に「公園所見」、「生の力」を出品[2]
    • 第1回聖徳太子奉賛美術展覧会に「殿堂に近し」を出品。[要出典]
    • 第7回帝展で「扇取」が初入選。のち目黒雅叙園が買取[3]
    • 11月 - 日本伝説学会発行の雑誌「伝説」の口絵に「扇取」掲載[4]
  • 1928年(昭和3年)
    • 第13回郷土会展に「月」を出品。[要出典]
    • 梨本宮家(渋谷)、宅内の内装の画を手がける。[要出典]
    • 同宮家勤務の、山本トメと出会う。[要出典]
  • 1929年(昭和4年)
    • 第10回帝展で「雪」が入選。[要出典]
    • 第2回聖徳太子奉賛美術展覧会に「秋まつり」を出品。[要出典]
    • 第14回郷土会展に「花嫁」を出品。[要出典]
  • 1930年(昭和5年) - 山本トメと結婚。青山高木町に居住。[要出典]
  • 1931年(昭和6年)
    • 6月 長男好生誕生。[要出典]
    • 目黒雅叙園 松の間(吾郎の美人画のみの間)、鷲の間(現・ホテル雅叙園東京4階)天井画を手がける[5]
    • 第16回郷土会展に「銀座四町目」を出品。[要出典]
  • 1932年(昭和7年)
    • 伝統芸能鹿踊りの取材のため岩手県に滞在。[要出典]
    • 浅草柳橋の料亭「二葉」、玄関から廊下の画を手がける 「獅子舞」。[要出典]
    • 女優津島恵子が能の装束で「二葉」に来訪し、吾郎の「獅子舞」前で写真撮影。[要出典]
  • 1933年(昭和8年)7月 - 長女和子誕生。品川区大井に居住。[要出典]
  • 1934年(昭和9年) - 伯林(ベルリン)日本画展覧会(外務省による日本美術紹介 ドイツベルリンにて)に出品。[要出典]
  • 1937年(昭和12年) - 次女効子誕生。トメの実家(佐渡)に預ける。[要出典]
  • 1938年(昭和13年)
    • 1月 妻トメ死去。[要出典]
    • 12月 帝国美術院附属美術研究所にて、所持していた観音菩薩像の記録保存撮影に協力[6]
  • 1944年(昭和19年) - 長女和子を佐渡に疎開させる。疎開先の中山旅館に多くの画を残す。[要出典]
  • 1945年(昭和20年)
    • 空襲により品川の自宅全焼、中野の兄陽康宅に身を寄せるもほどなくして空襲により全焼。[要出典]
    • 長男好生と下関に帰郷。その後預けていた長女和子、次女効子を迎えに行く。[要出典]
  • 1946年(昭和21年)ごろから - 東京と下関を往復し制作。[要出典]
  • 1947年(昭和22年)
    • 下関吉母に写生に行く。「松林図」(下関市立美術館蔵)。[要出典]
    • 福岡県八幡から古くからの画家の友人が遊びに来る。フクトカキ(材木に長い釘を何本も打つ潮干狩りの道具)を手作りして、近くの砂浜に出かけて共に海老を獲り、家に戻って活きたまま写生する。「海老図」、「蛙図」。[要出典]
  • 1950年(昭和25年) - 下関大丸の展覧会に出品。[要出典]
  • 1955年(昭和30年)2月9日 - 没(64歳)。[要出典]
  • 1995年(平成7年) - 目黒雅叙園美術館での装飾博覧会で、「扇取」、旧松の間の美人画ほか、計十数点展示される。同展案内チラシ両面に、作品が採用。[要出典]
  • 2004年(平成16年) - 下関吉見にて五十回忌。[要出典]
  • 2005年(平成17年) - 「扇取」、旧松の間の美人画が海外に渡る。[要出典]
  • 2018年(平成30年)
    • 下関市立美術館、ホテル雅叙園東京、鎌倉市鏑木清方記念美術館に、吾郎の画と生涯の経歴が改めて紹介される。[要出典]
    • ホテル雅叙園東京に、松の間を含む木造日本建築旧館の絵画のポジフィルムが約30年ぶりに届けられる。[要出典]
    • 「雛之図」、「枝垂桜美人之図」ほか計3点の吾郎筆掛軸があらたに発見される。[要出典]
  • 2019年(平成31年)
    • 2月「美人納涼図」があらたに発見される。[要出典]
    • 3月「松林図」が下関市立美術館収蔵となる。[要出典]

脚注

  1. ^ 『近代の美人画 目黒雅叙園コレクション』京都書房。 
  2. ^ 鏑木清方記念美術館編 『鏑木清方の系譜 ‐師水野年方から清方の弟子たちへ‐』 鏑木清方記念美術館、2008年 p150
  3. ^ 「近代の美人画 目黒雅叙園コレクション」京都書院 1988 図版46
  4. ^ 日本伝説学会「伝説」、1926年11月 口絵 p.11-13 (国立国会図書館蔵)
  5. ^ 「近代の美人画 目黒雅叙園コレクション」京都書院 1988 図版 333-337 418-423
  6. ^ 独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所 ガラス乾板データベース 原板番号 03194 19616 19617


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