上越新聞 (1940年-1942年)
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『上越新聞』(じょうえつしんぶん)は、かつて上越新聞社が刊行していた、新潟県高田市の地域紙。1940年、全国的に新聞統制が進められる中、それまで高田市で発行されていた『高田新聞』と『高田日報』が合併し、上越地方唯一の日刊紙として12月1日付から刊行された[1][2]。その後、統制がさらに進められ、県知事の介入もあって、『新潟日日新聞』、『新潟県中央新聞』との3紙合併が実現し、3紙は1942年10月末で発行を止め、11月1日に創刊した『新潟日報』に事業が継承された[1][3][4]。
- ^ a b 「言論・出版・宗教の統制」 『新潟県史 通史編8 近代三』新潟県、1988年、643-645頁。
- ^ 『高田市史 第二巻』「新聞の復活」1958年、pp.645-647 では、『高田新聞』、『高田日報』に加え、『高田毎日新聞』が合併に加わったとしている。
- ^ “新潟日報の社名の由来”. 新潟日報. 2019年3月28日閲覧。
- ^ “新潟日報(新潟新聞)”. ニチマイ. 2019年3月28日閲覧。
- 1 上越新聞 (1940年-1942年)とは
- 2 上越新聞 (1940年-1942年)の概要
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