ロバート・ジェームズ・マンとは? わかりやすく解説

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ロバート・ジェームズ・マン

(ロベルト・ゼエムス・メン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/01 02:54 UTC 版)

ロバート・ジェームズ・マンRobert James Mann FRAS FRCS FRGS1817年1月5日1886年8月4日)は、イギリスサイエンスライター。天文学、化学、生理学、健全学に関する著作を多数出版し[1]、著書『The Book of Health』(1850年)のオランダ語版は『健全学』として1873年に日本語訳された[2]

明治期には姓名が「ロベルト・ゼエムス・メン」に訳されている[2]

生涯

ジェームズ・マン(James Mann、1787年ごろ – 1820年/1821年)と妻エリザベス(旧姓ヒリング)の長男として、1817年1月5日にノリッジで生まれた[3]。姉が1人、妹が2人いたが、わずか4歳のときに父を亡くし、ロンドンにいるおじ、おばのもとで1830年ごろまで育てられた[3]。ロンドンの学校に通ったが、主に独学で知識を身につけ、1837年9月に医者となるべくユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに入学、1840年に大学病院でロバート・リストンの着付け係を務めた[3]。1840年4月16日にWorshipful Society of Apothecariesで開業許可を得て、同年6月26日にイングランド王立外科医師会会員になった[3]。同年に『Natural History Magazine』誌でノーフォーク州中部の被子植物一覧を出版した[3]

大学を出た後、ノーフォーク州で医師業を開業した[1]。具体的には1840年秋から1年ほどノリッジ、続いて1849年までバクストン英語版、以降1853年秋までエイルシャム英語版で医師業を務めた[3]。バクストンで天文学への興味を持ち[3]、田舎の住民に向けたレクチャーをもとに、1845年に最初の著作『The Planetary and Stellar Universe』を出版した[1]。その後、1848年に化学、1850年に『The Book of Health』(健康に関する著作)を出版[1]、以降天文学、化学、生理学、健全学に関する著作を多数出版して、その多くが版を重ねた[1]。エイルシャムでは1850年10月1日にシャーロット・エリザベス・ホワイト(Charlotte Elizabeth White、1822年/1823年 – 1886年以降)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[3]

1853年に健康上の理由により医師業を休業し[1]、1854年3月27日にセント・アンドリューズ大学M.D.の学位を修得した[3]。以降数年間冬と春をワイト島ヴェントナー英語版、夏と秋をノーフォークで過ごすことを繰り返した[3]。1855年、王立天文学会フェローに選出された[3]

1857年10月、ナタール主教ジョン・コレンソ英語版の招聘を受けて南アフリカナタール植民地に渡り、1866年3月まで同地で過ごした[3]。ナタールではまずコレンソ率いる宣教団のもとで医学、科学の教師を務め、次に1859年7月にナタール副総督から教育総監(superintendent of education)への任命を受け[3]、ナタールの小学教育制度を設立した[1]。このほかにナタール銀行理事を数年間務め、1862年のロンドン万国博覧会でナタールの展示を担当した[3]。ナタールでは写真撮影への興味を持ち、ジョン・ハーシェルの影響を受けて気象学にも興味を持った[3]。これにより1858年初から1866年初までナタールの気候を観察し、商務庁の気象部門に記録を提出したほか、ナタールの風土に関する著作を出版した[3]

1866年に帰国し、同年に王立地理学会フェローに選出された後、1869年に教育総監を辞任した[3]。また1866年に王立写真協会会員になり(1878年まで在籍)、1867年に王立気象学会英語版に加入した[3]。1873年から1875年まで王立気象学会会長を務め、1878年に王立外科医師会フェローに選出された[3]

1870年よりロンドンワンズワースに住んだ[3]。1886年8月2日に発作を起こし、4日にロンドンワンズワースにある自宅で病死、9日にケンサル・グリーン墓地英語版に埋葬された[3]。遺産は妻が相続した[3]

人物

オックスフォード英国人名事典』で「親切、誠実、無欲で謙虚な人物」と評された[3]

著作

  • The Planetary and Stellar Universe(1845年)
  • The Book of Health(1850年)
    • オランダ語版経由の日本語訳:杉田玄端訳『健全学』(1873年)[2]
  • The Philosophy of Reproduction(1850年)
  • Tennyson's "Maud" vindicated; an Explanatory Essay(1850年)
  • A Guide to the Knowledge of the Heavens, designed for the use of Schools and Families(1852年)
  • Lessons in General Knowledge(1855年 – 1856年)
  • A Guide to the Knowledge of Life(1858年)
  • A Guide to Astronomical Science(1858年)
  • A Description of Natal(1860年)
  • The Colony of Natal(1860年–1862年)
  • Medicine for Emergencies(1861年)
  • The Emigrant's Guide to Natal(1868年初版、1873年第2版)
  • The Weather(1877年)
  • Drink: Simple Lessons for Home Use(1877年)
  • Domestic Economy and Household Science(1878年)
  • The Zulus and Boers of South Africa(1879年)
  • The Physical Properties of the Atmosphere(1879年)
  • Familiar Lectures on the Physiology of Food and Drink(1884年)

出典

  1. ^ a b c d e f g Wood, Henry Trueman Wright (1893). "Mann, Robert James" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 36. London: Smith, Elder & Co. pp. 43–44.
  2. ^ a b c 健全学. 上,中,下編”. 古典籍総合データベース. 早稲田大学図書館. 2025年1月31日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Walker, J. Malcolm (23 September 2004). "Mann, Robert James". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/17947 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
非営利団体
先代
ジョン・ウィリアム・トライプ英語版
英国王立気象学会英語版会長
1873年 – 1875年
次代
ヘンリー・ストークス・イートン



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