レトーンの三言語碑文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 06:40 UTC 版)


レトーンの三言語碑文、あるいはクサントスの三言語碑文は、三言語で記された碑文であり、標準リュキア語(リュキア語A)、ギリシア語、アラム語で構成されている。これは四面体の石碑、すなわちレトーンの三言語碑(Letoon Trilingual Stele)の各面に刻まれており、1973年に、現代トルコの古代リュキアのクサントス近郊にあるレトーン神殿複合体(女神レトーに捧げられた)を考古学的に探査していた際に発見された。リュキアがペルシアのアケメネス朝の支配下にあった時代に作成されたものである[1] 。この碑文は、神々への言及や新設の祭祀に従事する役人の規定を伴った、祭祀創設を許可する勅令の公的記録である。リュキア語部分は41行、ギリシア語部分は35行、アラム語部分は27行で構成される。それらは逐語的な翻訳ではなく、それぞれに他の言語には記されていない情報を含む。アラム語部分はやや簡略化されている[2]。
碑文および石碑に関して「レトーン」という名称の使用は明確であるが、標準的な呼称は存在しない。「クサントスの三言語碑」という呼称が用いられることもあるが、これはクサントス二言語碑(クサントスのオベリスク)とは区別されるべきものである。しかし、場合によっては「クサントス石碑」という語が、レトーンの三言語碑およびクサントスの墓の双方を指すこともある。さらに「クサントス三言語碑(リュキア語A、リュキア語B、ギリシア語)」という語が、クサントスの墓を指して用いられる場合もある。後者の二つのケースでは、文脈によってどの石碑を意味するかを判断するしかない。アラム語の碑文は KAI 319 として知られている。
発見地点
レトーンは、古代リュキアの首都クサントスの南約4キロメートル(2マイル)に位置する神殿複合体である。この複合体は紀元前7世紀にまで遡ると考えられ、リュキア同盟の中心地であったと考えられている。その中には、レトー、アルテミス、アポローンの三神を祀る三つの神殿が存在した。石碑はアポローン神殿の近くで発見され、現在はフェティエ博物館に移されている。遺跡全体は現在、数インチの水に浸かっている状態である。
碑文の年代

アラム語版の最初の五行には、この碑文がペルシア王アルタクセルクセスの治世の第一年に作成されたことが記されているが、どのアルタクセルクセスかは特定されていない。
シワンの月(Siwan)、アルタクセルクセス王治世第一年において。アルニャ(クサントス)の要塞にて。カルカ(カリア)およびテルミラ(リュキア)に在るサトラップ、カトムノ(ヘカトムノス)の子ピクソダロス……[2]
もしここで言及される王がアルタクセルクセス3世オコスであった場合、この碑文の作成年は彼の治世第一年、すなわち紀元前358年となる[2]。しかしながら、ヘカトムノスの統治は紀元前395年頃から377年までであったと考えられており、その子ピクソダロスがカルカおよびリュキアのサトラップとなったのは紀元前341/340年以降である。したがって、この場合のペルシア王は、アルタクセルクセス3世の子であるアルタクセルクセス4世アルセスである可能性が最も高く、彼は即位時に父の名を継承した。この場合、三言語碑はアルタクセルクセス4世治世第一年、すなわち紀元前337/336年に位置づけられることになる[3]。
テキストの概要
リュキア語本文の1~5行目は、碑文がピクソダロスの統治期に作成されたことを示している。
5~8行目:クサントスの市民は二柱の神、「カウニアの支配者およびアルケシマス王」の祭祀を導入する。
9~11行目:シミアスという人物が祭司に任じられ、その祭司職は世襲とされる。
12~20行目:神殿が所有する領域の定義、および祭司に与えられる給与の規定。
20~24行目:神殿の名のもとに新たな税が制定され、奴隷が解放された際に課される。
24~30行目:その収入は定期的な供犠の費用に充てられる。
30~36行目:クサントス市民およびクサントス領域の住民は、これらの規定を忠実に執行することを誓う。
リュキア語文の例
1-2. | ピクソダロス、すなわちヘカトムノスの子がリュキアのサトラップとなった際、 | (1) Ẽke: trm̃misñ: xssaθrapazate: pigesere: (2) katamlah: tideimi: | |
2-5. | 彼はリュキアの統治者としてヒエロン(ijeru)およびアポロドトス(natrbbejẽmi)を任命し、 ザンソスの総督(asaxlazu)にはアルテメリス(erttimeli)を置いた。 |
sẽñneñte- (3) pddẽhadẽ: trm̃mile: pddẽnehm̃mis: (4) ijeru: senatrbbejẽmi: se(j)arñna: (5) asaxlazu: erttimeli: | |
5-6. | 市民(arus)およびクサントスの近隣住民は決定した、 | mehñtitubedẽ: (6) arus: se(j)epewẽtlm̃mẽi: arñnãi: | |
7-8. | カウニアの支配者およびアルケシマス王の祭壇を設置することを | (7) m̃maitẽ: kumezijẽ: θθẽ: xñtawati: (8) xbidẽñni: se(j)arKKazuma: xñtawati: | |
9-10. | 祭司としてコンドラシスの子シミアスを選び、 | (9) sẽñnaitẽ: kumazu: mahãna: ebette: (10) eseimiju: qñturahahñ: tideimi: | |
11. | シミアスに最も近しい者も含めて | (11) sede: eseimijaje: xuwatiti: | |
12. | 税からの免除(arawã)を付与した。 | (12) seipijẽtẽ: arawã: ehbijẽ: esiti: |
関連項目
参照文献
脚注
- ^ Reger, Gary (2014). “Hybrid Ethnicity and Borderlands in the Greco-Roman World”. In McInerny, Jeremy. A Companion to Ethnicity in the Ancient Mediterranean. John Wiley & Sons, Inc. p. 117. ISBN 978-1444337341. "And the Lycians quite early came to use Greek as well as Lycian for their inscriptions, most famously in the so-called Trilingual Inscription of the Letoon, set up in Aramaic (the ruling language of the Persian Empire, at that time sovereign over Lycia), Lycian, and Greek."
- ^ a b c Teixidor, Javier (April 1978). “The Aramaic Text in the Trilingual Stele from Xanthus”. Journal of Near Eastern Studies 37 (2): 181–185. doi:10.1086/372644. JSTOR 545143. First page displayable no charge.
- ^ Bryce (1986) pages 48-49.
- ^ Bryce (1986) pages 68-71.
- ^ Laroche, Emmanuel (1979). “L'inscription lycienne”. Fouilles de Xanthos VI: 51–128.
- Bryce, Trevor R. (1986). The Lycians - Volume I: The Lycians in Literary and Epigraphic Sources. Copenhagen: Museum Tusculanum Press. ISBN 87-7289-023-1
書籍
- Simon, Zsolt (2024). “Anatolian Theonyms in the Aramaic Version of the Letoon Trilingual”. In Szilvia Sövegjártó; Márton Vér. Exploring Multilingualism and Multiscriptism in Written Artefacts. Berlin, Boston: De Gruyter. pp. 331–346. doi:10.1515/9783111380544-012. ISBN 978-3-11-138054-4
外部リンク
- Melchert (2000年). “The Trilingual Inscription of Letoon: Lycian Version”. Achemenet. 2017年4月4日閲覧。
- レトーンの三言語碑文のページへのリンク