ライムント時代の調べとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ライムント時代の調べの意味・解説 

ライムント時代の調べ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/11 07:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
1898年に制作されたフェルディナント・ライムントの銅像。

ライムント時代の調べ』(ドイツ語: Klänge aus der Raimundzeit作品479は、ヨハン・シュトラウス2世が作曲した幻想曲。作曲者にとって作品番号が付けられた最後の楽曲である。

楽曲解説

「ライムント時代」とは、かつて劇作家フェルディナント・ライムントが活躍した時期のことであり、ヨハン・シュトラウス1世ヨーゼフ・ランナーによって「ワルツ合戦」が繰り広げられた頃を示している。1898年、ライムントを記念する銅像の除幕式に先立って、新曲を作ってほしいという依頼がワルツ王ヨハン・シュトラウス2世のもとに持ち込まれた[1]

ヨハン2世は、晩年になって自らの死が近づいていることを感じ取っていた。この『ライムント時代の調べ』は、ライムントの作品の歌詞である「さらば友よ」と、もう一つの別れの歌「さようなら、静かな我が家よ」で始まり、それに続いてランナーの『シュタイヤー風舞曲』や『シェーンブルンの人びと』、父ヨハン1世の『人生は踊り』や『ドナウ川の歌』など5曲のモチーフが次々と現れ、再びライムントの二つの歌に戻って終わるというワルツのメドレーである[2]。自らの命がもう長くないことを予感していたヨハン2世は、1848年革命以前の「古き良き時代」を感傷的に回顧してこの楽曲を作曲したのである[2]

花を手向けられたヨハン2世の遺骸。(1899年6月撮影)

ヨハン2世は、体調に不安を抱えながらも自ら指揮棒を取って初演した[1]。そしてこの回顧的な作品こそが、作品番号が付けられた最後のヨハン2世の作品となってしまった[1]。ヨハン2世は翌1899年6月3日に死去したが、彼が死の床で口ずさんだ言葉も、ライムントの歌詞「さらば友よ、だれにもいつかは別れの時がくる」だったと伝えられている[2]

出典

  1. ^ a b c 小宮(2000) p.207
  2. ^ a b c 加藤(2003) p.218

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ライムント時代の調べ」の関連用語

ライムント時代の調べのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ライムント時代の調べのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのライムント時代の調べ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS