ヨハンハインリヒシュメルツァーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 音楽家 > 作曲家 > オペラ作曲家 > ヨハンハインリヒシュメルツァーの意味・解説 

ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/27 08:00 UTC 版)

ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー
Johann Heinrich Schmelzer
17世紀
基本情報
生誕 1623年
出身地 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
死没 1680年
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国、プラハ
職業 ヴァイオリニスト、作曲家
活動期間 バロック

ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァーJohann Heinrich Schmelzer, 1623年 - 1680年)は、バロック期オーストリア作曲家ヴァイオリニストウィーンで活躍し、プラハで死んだ。

シュメルツァーはオーストリア人でありながら、当時イタリア人たちに支配されていた分野(ヴァイオリンの演奏と作曲)で、高い評判を得た。実際、1660年、ある旅行者は彼について「全ヨーロッパで最も傑出したヴァイオリニストではなかろうか」と言及したほどである。1664年の彼の作品「Sonatae unarum fidium」は、ドイツ語圏の作曲家が初めて出版した、ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ集である。そこには、中期バロックのヴァイオリン・ソナタ特有の、華麗なヴィルトゥオーソ性、個々の構成、広い固執低音の変奏が含まれていた。また彼が活躍したウィーンのハプスブルク宮廷では、宮廷楽長はイタリア人になることが多く、実際彼の前任の楽長もジョヴァンニ・フェリーチェ・サンチェス英語版というイタリア人だったが、その死後、オーストリア人としては珍しいことに宮廷楽長に昇進した(1679年)。しかしそれからわずか数か月後、ペストにより亡くなった。

シュメルツァーは当時のオーストリアの器楽曲作曲家の先頭を進む第一人者で、やはりオーストリアのヴァイオリニスト兼作曲家のハインリヒ・ビーバーに多大な影響を与えた。ビーバーはシュメルツァーの弟子の一人ではなかったかと言われている。

息子のアンドレアス・アントン・シュメルツァーも父の後を継いで、作曲家、ヴァイオリニストになった。

主な作品

  • フェルディナンド3世の死に寄せる哀歌(Lamento sopra la morte di Ferdinado III)(1657年)
  • 12の選ばれたソナタ(Duodena selactarum sonatarum)(1659年)
  • 聖と俗との音楽的協和(宗教的・世俗的合奏曲集)(Sacro-profanus concentus musicus)(1662年)
  • 一つの弦楽器のためのソナタ集(Sonata unarum fidium)(1664年)
  • フェンシング指南(Die musikalische Fechtschul)(1668年)
  • 放屁の日のためのソナタ(Sonata a 5 per camera al giorno delle correggie)(1676年)
  • 150の組曲、声楽曲、および教会音楽

VIDEO

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

ヨハンハインリヒシュメルツァーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヨハンハインリヒシュメルツァーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヨハン・ハインリヒ・シュメルツァー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS