マルゲリータ・ディ・サヴォイア_(1390-1464)とは? わかりやすく解説

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マルゲリータ・ディ・サヴォイア (1390-1464)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 04:51 UTC 版)

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マルゲリータ・ディ・サヴォイア
Margherita di Savoia
イエス・キリストから3本の矢を受け取るマルゲリータ、1692年の版画

出生 (1390-06-21) 1390年6月21日
サヴォイア伯領フォッサーノ
死去 (1464-11-23) 1464年11月23日(74歳没)
アルバ
埋葬 アルバ
配偶者 モンフェッラート侯テオドーロ2世
家名 サヴォイア家
父親 アカイア公アメデーオ
母親 カトリーヌ・ド・ジュネーヴ
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マルゲリータ・ディ・サヴォイア
福者
列福日 1669年
列福決定者 クレメンス9世
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マルゲリータ・ディ・サヴォイア(Margherita di Savoia, 1390年6月21日 - 1464年11月23日)は、イタリアのサヴォイア家の公女で、モンフェッラート侯テオドーロ2世の3番目の妻。1669年にローマ・カトリック教会福者とされた。

生涯

ピエモンテ領主で名目上のアカイア公であるアメデーオと、ジュネーヴ伯アメデ3世の娘カトリーヌの間の長女として生まれた。サヴォイア=アカイア家(Savoia-Acaia)は、マルゲリータの曾祖父フィリッポ1世がアカイア公国の女子相続人イザベル・ド・ヴィルアルドゥアンと結婚し、1301年から1307年にかけてアカイアを治めたことに始まる。フィリッポ1世はその後、アンジュー=シチリア家のタラント公フィリッポ1世によってアカイアを追われたが、その子孫はアカイア公位を請求し続けていた。

1403年1月17日、マルゲリータはビザンツ帝国パレオロゴス朝の流れをくむモンフェッラート侯テオドーロ2世と結婚した。15年間の結婚生活の間に子供を授かることはなく、夫は1418年に亡くなった。

マルゲリータは元来敬虔なカトリック信徒だったが、モンフェッラートに数ヶ月間滞在したドミニコ会の説教師ヴィンチェンツォ・フェレリ(後に聖人)の説教を聞いた後は、その影響でさらに信心深くなった。1418年に夫と死別すると、俗世を離れて修道院に入ることを決めた。継息子のモンフェッラート侯ジョヴァンニ・ジャーコモに諸事を託すと、マルゲリータは28歳でアルバに引退してドミニコ会第三会に入会した。

その後まもなく、ミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがマルゲリータとの結婚を望み、教皇マルティヌス5世にマルゲリータの立てた修道女誓願を取り消してくれるように頼んだ。マルゲリータはミラノ公の強引なやり方に表立って反対し、自分は全てを神に捧げていると訴えて、再婚話を破談にした。マルゲリータは諸侯家の貴婦人の常として、修道院をドミニコ会に寄進している。マルゲリータは他の人よりも重い苦行に耐え、強い信仰心を示し、1464年にアルバの修道院で亡くなった。

マルゲリータは1669年、教皇クレメンス9世によって福者とされた。

参考文献




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