マリア・ホセファ・デ・ボルボンとは? わかりやすく解説

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マリア・ホセファ・デ・ボルボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 07:18 UTC 版)

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マリア・ホセファ・デ・ボルボン
María Josefa de Borbón
ボルボン家
スペイン王女マリア・ホセファ、ロレンツォ・ティエポロ画、1763年

出生 (1744-07-06) 1744年7月6日
スペイン帝国ガエータ
死去 (1801-12-08) 1801年12月8日(57歳没)
スペイン王国マドリード
埋葬  
聖テレサ女子修道院、のちエル・エスコリアル修道院
父親 スペインカルロス3世
母親 マリア・アマーリア・フォン・ザクセン
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マリア・ホセファ王女、フランシスコ・デ・ゴヤ画、1800年

マリア・ホセファ・カルメラ・デ・ボルボン・イ・サホーニャMaría Josefa Carmela de Borbón y Sajonia, Infanta de España, 1744年7月6日 - 1801年12月8日)は、スペインの王女。カルロス3世の娘、カルロス4世の姉で、生涯独身を通した。

生涯

カルロス3世(当時はナポリ・シチリア王)とその妻でポーランド王・ザクセン選帝侯アウグスト3世の娘であるマリア・アマーリアの間の第4子、四女として生まれた。名前は父方の祖母のザクセン選帝侯夫人マリア・ヨーゼファの洗礼名を受け継いでいる。父が統治していたナポリ王国の宮廷で生まれ育ち、1759年に父のスペイン王位継承に伴ってスペイン宮廷に移った。

3人の姉たちは皆夭折したため、王家の第一王女であったが、縁談に恵まれず、1764年には妹マリア・ルイサが彼女を追い越してトスカーナ大公レオポルトに嫁いだ。1768年、男やもめとなったフランス王ルイ15世の後妻となる縁談が持ち上がったが、結局実現しなかった。

マリア・ホセファは父王の死後も弟カルロス4世の宮廷に残った。カルメル会に所属するマドリードの聖テレサ女子修道院に資金援助を行い、死後、同修道院に葬ってもらう約束を取り付けた。1877年、王女の遺骸は聖テレサ修道院からエル・エスコリアル修道院の王子廟に移された。

参考文献

  • Mississippi Commission For international Cultural Exchange. The Majesty of Spain: Royal Collections from The Museo del Prado & The Patrimonio Nacional. Mississippi Commission For international Cultural Exchange Inc, 2001.

外部リンク

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