ヘルマン1世 (シュヴァーベン大公)とは? わかりやすく解説

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ヘルマン1世 (シュヴァーベン大公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/03 01:41 UTC 版)

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ヘルマン1世
Hermann I.
シュヴァーベン大公
在位 926年 - 949年

死去 949年12月10日
配偶者 レゲリンダ・フォン・チューリッヒガウ
子女 イダ
家名 コンラディン家
父親 ロートリンゲン公ゲープハルト
母親 イダ
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シュヴァーベン公ヘルマン1世(Hermann I., ? - 949年12月10日)は、シュヴァーベン大公(在位:926年 - 949年)。コンラディン家ロートリンゲン公ゲープハルトの子。神聖ローマ皇帝コンラート1世、フランケン公エーバーハルトは従兄にあたる[1]

生涯

926年に前シュヴァーベン公ブルヒャルト2世がイタリアで戦死した後、東フランク王ハインリヒ1世によりシュヴァーベン公とされた[2]。ヘルマン1世はブルヒャルト2世とは血縁関係はなく、またブルヒャルト2世に男子継承者(後のシュヴァーベン公ブルヒャルト3世)がいたが、公位継承を確固たるものにするためブルヒャルト2世の寡婦レゲリンダ(チューリッヒガウ伯エーバーハルト1世の娘)と結婚した[3]938年に従兄フランケン公エーバーハルトが反乱を起こした際に甥が戦死して以降、エーバーハルトとは対立関係となり[4]、翌939年に皇帝オットー1世の弟ハインリヒ1世の反乱にエーバーハルトが与したとき、ヘルマン1世は皇帝側として戦い、エーバーハルトはアンデルナハの戦いで戦死した[5]

ヘルマン1世の子は娘イダ(985年没)のみであったが、皇帝オットー1世の長子リウドルフと結婚し、949年にヘルマン1世が死去した際にはリウドルフがシュヴァーベン公位を継いだ[6]。また、リウドルフとイダの子オットー1世が嗣子なく死去した後、シュヴァーベン公位は同族(甥ともいわれる)のコンラート1世のものとなった[7]

脚注

  1. ^ 下津、p. 302, p. 309
  2. ^ 瀬原、p. 70
  3. ^ Reuter, p.142
  4. ^ Reuter, p.153
  5. ^ 瀬原、p. 77
  6. ^ 瀬原、p. 79
  7. ^ 瀬原、p. 101

参考文献

  • Reuter, Timothy. Germany in the Early Middle Ages 800-1056. New York: Longman, 1991.
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年

関連項目

先代:
ブルヒャルト2世
シュヴァーベン公
926年 - 949年
次代:
リウドルフ



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