フェルナンド・マリア・ルイス・デ・ブラガンサとは? わかりやすく解説

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フェルナンド・マリア・ルイス・デ・ブラガンサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 03:54 UTC 版)

フェルナンド・マリア・ルイス
Fernando Maria Luís
ブラガンサ=コブルゴ家
1861年

出生 (1846-07-23) 1846年7月23日
ポルトガル王国リスボン
死去 (1861-11-06) 1861年11月6日(15歳没)
ポルトガル王国、リスボン
埋葬 ポルトガル王国サン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院ブラガンサ王室霊廟英語版
父親 フェルナンド2世
母親 マリア2世
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フェルナンド・マリア・ルイス・デ・サクセ=コブルゴ=ゴタ・イ・ブラガンサFernando Maria Luís de Saxe-Coburgo-Gota e Bragança, 1846年7月23日 - 1861年11月6日)は、ポルトガルの王族。ブラガンサ家ブラガンサ=コブルゴ家)の成員[注釈 1]

生涯

女王マリア2世とその王配フェルナンド2世の間の第四王子として生まれた。正式な洗礼名はフェルナンド・マリア・ルイス・ミゲル・ハファエル・ガブリエル・ゴンザーガ・フランシスコ・デ・アシス・アントニオ・アポリナリオ(Fernando Maria Luís Miguel Rafael Gabriel Gonzaga Francisco de Assis António Apollinário)。

幼くしてカサドレス(軽騎兵)第5大隊所属の少尉に任官し、またヴィラ・ヴィソザ無原罪の御宿リ騎士団英語版勲章を拝受した。

1861年初冬、長兄ペドロ5世王、三兄ベージャ公ジョアン王子とともに、コレラ(或いは腸チフス)に感染して死去した。15歳だった。遺体はサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院ブラガンサ王室霊廟英語版に安置された。

脚注

  1. ^ 1944年版『ゴータ年鑑英語版』ではザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ公家の男系男子として記載されている。しかし、1838年ポルトガル憲法(1838 Portuguese constitution)第1章第1条第5項では「最も静穏なるブラガンサ家こそがポルトガルの統治者家門であり、同家は女王マリア2世陛下の人格[法人格・自然人格]を通じて継続される」と定められていた。そのため、マリア2世とフェルナンド2世の子孫は、公式にはブラガンサ家に属する形となった。

参考文献

  • Redacção Quidnovi, com coordenação de José Hermano Saraiva, História de Portugal, Dicionário de Personalidades, Volume XIV, Ed. QN-Edição e Conteúdos, S.A., 2004.
  • Tavares Dias, Marina, D. Carlos, Lisboa 1908, Quimera Editores, Lda., 2007. ISBN 978-972-589-176-6

外部リンク

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