フェルディナンド1世_(パルマ公)とは? わかりやすく解説

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フェルディナンド1世 (パルマ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 14:13 UTC 版)

フェルディナンド1世
Ferdinand I
パルマ公
在位 1765年7月18日 - 1802年10月9日

出生 1751年1月20日
パルマ公国パルマ
死去 1802年10月9日
パルマ公国フォンテヴィーヴォ
埋葬 パルマ公国フォンテヴィーヴォ修道院
配偶者 マリア・アマーリア・ダズブルゴ
子女 カロリーナ
エトルリア王ルドヴィーコ
マリア・アントニエッタ
カルロッタ
家名 ブルボン=パルマ家
父親 フィリッポ1世
母親 ルイーザ・エリザベッタ・ディ・フランチア
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フェルディナンド・ディ・ボルボーネ

フェルディナンド・ディ・ボルボーネ(Ferdinando di Borbone, 1751年1月20日 - 1802年10月9日)は、パルマ公(在位:1765年 - 1802年)。

生涯

フェルディナンドは、パルマ公フィリッポと妃エリザベッタ(フランス王ルイ15世の王女)との第2子で唯一の息子であった。1765年に父の死により公位を継いだ。

1769年7月19日、フェルディナンドは神聖ローマ皇帝フランツ1世とその皇后マリア・テレジアの六女マリーア・アマーリアと結婚した。なお、姉マリア・イサベラは妻マリーア・アマーリアの兄ヨーゼフ2世の妃であり、ブルボン=パルマ家ハプスブルク=ロートリンゲン家の二重結婚であった。

パルマ公国は1796年ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受けてフランス革命軍に占領された。フランス統領政府スペインオーストリアと結んだ1801年のアランフエス条約リュネヴィル講和条約により、パルマ公国はフランスに譲渡させられた。代償として、フェルディナンドの息子ルドヴィーコエトルリア王国トスカーナ大公国に代わって建てられたフランスの衛星国[1])が与えられ、またフェルディナンドは名目上のパルマ公位を保持した。しかし、フェルディナンドは翌1802年に死去した。1803年には息子ルドヴィーコも早世し、その遺児カルロ・ルドヴィーコがエトルリア王位を継いだ。

子女

  • カロリーナ(Carolina, 1770年11月22日 - 1804年3月1日) - 1792年、ザクセン公子マクシミリアンと結婚。
  • ルドヴィーコ(Ludovico, 1773年8月5日 - 1803年5月27日) - エトルリア王。
  • マリーア・アントニエッタ(María Antonietta, 1774年11月28日 - 1841年2月20日)
  • カルロッタ(Carlotta, 1777年9月7日 - 1813年4月5日)
  • フィリッポ・マリーア(Filippo Maria, 1783年5月22日 - 1786年7月2日)
  • アントニエッタ(Antonietta Luisa, 1784年10月21日)
  • ルイーザ・マリーア(Luisa Maria, 1787年4月17日 - 1789年11月22日)

脚注

  1. ^ トスカーナ大公であったフェルディナンド3世には代償にザルツブルク選帝侯領が与えられた。

参考文献

先代
フィリッポ1世
パルマ公
1765年 - 1802年
次代
ジャン=ジャック



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