フィリップス・ウィレム (オラニエ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フィリップス・ウィレム (オラニエ公)の意味・解説 

フィリップス・ウィレム (オラニエ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 08:50 UTC 版)

フィリップス・ウィレム
Filips Willem
オランダ総督
オラニエ公
在位 1584年 - 1618年

出生 (1554-12-19) 1554年12月19日
ネーデルラント17州、ブレン
死去 (1618-02-20) 1618年2月20日(63歳没)
スペイン領ネーデルラントブリュッセル
埋葬 スペイン領ネーデルラント、ディースト
配偶者 エレオノール・ド・ブルボン=コンデ
家名 オラニエ=ナッサウ家
父親 オラニエ公ウィレム1世
母親 アンナ・ファン・エフモント・ファン・ブレン
宗教 キリスト教カトリック
テンプレートを表示

フィリップス・ウィレム(Filips Willem van Oranje, 1554年12月19日 - 1618年2月20日)は、オラニエ(オランジュ)公。オランダ総督・オラニエ公ウィレム1世の長男。母アンナはエフモント伯ラモラールと同族である。名前は父の主君、神聖ローマ皇帝カール5世の息子フェリペと、父の名前を取って名付けられた。

生涯

1568年スペインへ拉致され、マドリードカトリック教徒として育てられた。そのため、八十年戦争に加担せず、オランダ共和国の内政にも関わらなかった。父ウィレムによって相続人から外されていたにもかかわらず、1584年に父が暗殺されるとオラニエ公領などの遺領を相続したとして、異母弟マウリッツフレデリック・ヘンドリックと争った。

1598年からブリュッセルブレダ(当時スペインの支配下にあった)で暮らし、南ネーデルラントにあったオラニエ=ナッサウ家の財産を自らのものとした。1606年コンデ公アンリ1世の娘エレオノールと結婚したが、子供はできなかった。1618年、ブリュッセルで謎の死を遂げた。その後、異母弟マウリッツがオラニエ公を継承した。

脚注

参考文献

先代
ウィレム1世
オラニエ公
1584年 - 1618年
次代
マウリッツ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フィリップス・ウィレム (オラニエ公)」の関連用語

フィリップス・ウィレム (オラニエ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フィリップス・ウィレム (オラニエ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフィリップス・ウィレム (オラニエ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS