ハク奇とは? わかりやすく解説

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ハク奇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 16:11 UTC 版)

本来の表記は「苩奇」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
はくき
各種表記
ハングル 백가
漢字 [* 1]
発音:
日本語読み: はくき
ローマ字 Baek Gi
マッキューン・ライシャワー式 Paek Ki
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[* 1](はくき、백기(ペキ)、生没年未詳)は、百済武王の時の将軍で、大姓八族中の[* 1]出身貴族である[1]

生涯

達率を務めた。

602年(武王3年)8月、武王が親しく新羅の阿莫山城(今の全羅北道南原市雲峰邑)を攻囲したが、新羅の真平王は精鋭数千騎を送って抵抗してこれと闘ったため、不利となり撤退した。新羅は、新たに小陁・畏石・泉山・甕岑など4城を築いて百済との境界に迫り侵したため、武王は怒って佐平解讎に命じ、また4万の大軍を連れ、その新築の4城を攻撃したが、解讎だけが命からがら単騎で逃げおおせた程度の惨敗を喫した[2]

14年後である616年(武王17年)10月、再び新羅の阿莫山城を攻撃しようとする武王の王命を受け、苩奇は達率として軍士8000名を率い、阿莫山城[* 2]を攻撃した[2]。が、やはり勝つことができず、戻ってきた[* 3]

注解

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c 草冠「艹」に「」。
  2. ^ 百済本紀の本文には母山城と記されているが、阿莫山城と同じ城である。
  3. ^ この記録は、百済本紀でなくて新羅本紀にあるのだが、二つとも勝敗に関した言及がないのに鑑みて、百済が攻略に失敗したようである。[要出典]

脚注

  1. ^ 通典  巻185「辺防」第1・東夷(上)・百済条. - ウィキソース. 
  2. ^ a b 三国史記  巻27「百済本紀」第5、武王条. - ウィキソース. 



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