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ニコラエ・トニツァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/28 10:27 UTC 版)

ニコラエ・トニツァ
Nicolae Tonitza
1927年のニコラエ・トニツァ
生誕 (1886-04-13) 1886年4月13日
ルーマニア、バルラド(Bârlad)
死没 1940年2月26日(1940-02-26)(53歳没)
ルーマニア、ブカレスト
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ニコラエ・トニツァ作、パンの配給のための行列 (1920)

ニコラエ・トニツァ(Nicolae Tonitza、1886年4月13日 - 1940年2月26日)は、ルーマニアの画家、雑誌編集者、美術評論家である。ポスト印象派や表現主義に影響を受け[1]、ルーマニアのモダニズム美術の先駆者とされる。

略歴

ルーマニア東部ヴァスルイ県のバルラド(Bârlad)で生まれた。バルラドの高校を卒業した後、1902年に、ヤシの国立美術学校(Şcoala naţională de Belle-Arte din Iaşi、後のジョルジェ・エネスク芸術大学)で絵画をゲオルゲ・ポポヴィッチ(Gheorghe Popovici)とエマノイル・バルダサレ(Emanoil Panaiteanu-Bardasare)に学ぶ[2]が学生ストライキに参加し退学させられた。

1903年にブカレスト大学の教授で美術家のグリゴレ・トシレスク(Gheorghe Popovici)らとイタリアを訪れた。その後ヤシ県のグロゼシュティ(Grozești)の教会の装飾画の制作に参加した[2]

1908年にミュンヘンに移り、ミュンヘン美術院フーゴー・フォン・ハーベルマンに学んだ。在学中にルーマニアの展覧会に作品を出展し、ルーマニアの雑誌に挿絵や美術評論を寄稿した。1909年の夏は再びイタリアを訪れ、秋にはフランスを訪れ、パリに2年ほど滞在し、画家、版画家のピエール・ラプラード(Pierre Laprade: 1875-1931)のスタジオなどを訪れ、パリの画家たちと交流し、風景画や肖像画、抽象画を描いた[2]。1911年にルーマニアに戻り、最初はバルラドで暮らした後、ヤシに戻り陸軍大学で絵の代用教員を務め、1912年にヤシの美術学校の卒業資格を得た。

各地の教会の装飾画を描き、1913年に結婚した。経済的な理由から、新聞「イアシュル」で編集者として働き、画家活動から離れた。1916年に美術学校の同僚のシュテファン・ディミトレスク(Ștefan Dimitrescu: 1886-1933)とともにブカレストで素描を展示をした。

1916年に第一次世界大戦の連合国側にルーマニア王国が参戦すると動員を受け、ルーマニア戦線に送られ[3]、負傷し捕虜となり、ブルガリアの捕虜収容所に送られた。戦後の1919年に軍での活動に対して授勲された[4]

戦後、ブカレストに住み展覧会に参加し、挿絵の仕事をした。1922年にトランシルヴァニアを旅し、表現主義の画家、オーレル・ポップ(Aurel Popp: 1879-1960)とも知り合い、友人になった。1924年にヴェネツィア・ビエンナーレに出展した。1925年に「ルーマニア美術協会」を退会し、フランシスク・シラート(Francisc Şirato)、オスカル・ハン(Oscar Han)、シュテファン・ディミトレスクとともに「4人組(Grupul celor patru)」というグループを結成し[5] 1934年までこのグループ展に出展し、国外の展覧会にも出展した。1933年にディミトレスクが亡くなった後、ディミトレスクの後任としてヤシの国立美術学校の校長を務めた。

1939年から重病になり、1940年2月にブカレストで亡くなった。

作品

脚注

  1. ^ Drăguţ et al., p.191, 192, 193; Grigorescu, p.432; Șorban, p.14-26
  2. ^ a b c Șorban, p.73
  3. ^ Laura Sînziana Cuciuc Romanescu (2013). “Nicolae Tonitza, The Painter From Turtucaia”. Revista Româna de Studii Eurasiatice 9 (1/2): 53–61. https://www.proquest.com/docview/1518113509/. 
  4. ^ Ministerul de Răsboiu, Anuarul ofițerilor și drapelelor Armatei Române cărora li s-au conferit ordinul „Mihai Viteazul”, Atelierele grafice „Socec & Co”, București, 1930, p.69
  5. ^ Șorban, p.75; Zambaccian

参考文献

  • Vasile Drăguţ, Vasile Florea, Dan Grigorescu, Marin Mihalache, Pictura românească în imagini ("Romanian Painting in Images"), Editura Meridiane, Bucharest, 1970
  • Dan Grigorescu, Istoria unei generații pierdute: expresioniștii ("The History of a Lost Generation: the Expressionists"), Editura Eminescu, Bucharest, 1980
  • Gh. I. Ioniță, "«Un succes al spiritului de solidaritate»" ("«A Success for the Spirit of Solidarity»"), in Magazin Istoric, October 1972
  • Raul Șorban, Nicolae Tonitza, Editura Meridiane, Bucharest, 1965
  • Krikor Zambaccian, "Chapter XII: Tonitza", in Însemnările unui amator de artă ("The Recordings of an Art Aficionado"), published and hosted by LiterNet



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