ニコニコ (雑誌)とは? わかりやすく解説

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ニコニコ (雑誌)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 12:56 UTC 版)

ニコニコ1911年(明治44年)に創刊した月刊誌。不動貯金銀行頭取・牧野元次郎が主唱したニコニコ倶楽部の機関誌である。

ニコニコ倶楽部

不動貯金銀行頭取・牧野元次郎はニコニコ主義を唱えてニコニコ倶楽部を創立し、1911年2月から倶楽部の機関誌『ニコニコ』を刊行した。アメリカのタフト大統領が会頭の"Optimist Club"を参考にしたクラブである[1]。牧野は大黒天を信仰しており、ニコニコ倶楽部の会則では「会員は常に福徳円満の祖人大黒天を崇拝し、毎朝今日一日の座右銘を三唱し何事もニコニコとして君恩を忘れず、家内睦じく、国家の富強、子孫の繁栄長久を祈る可き事」とされた[2]。初めの1年で倶楽部の会員は3万人に達したという。

雑誌ニコニコ

『ニコニコ』は1911年2月に創刊。編集長は松永敏太郎(びんたろう)。創刊号の口絵に伊藤博文桂太郎渋沢栄一大倉喜八郎と著名人のニコニコ顔を掲載。毎号、笑う写真を多数掲載していた。また読者の投稿を公募したことも特徴の1つである。『婦人世界』が月8、9万部で発行部数日本一と言われた時代に、7万部を発行していたという(1916年当時)[3]
1917年10月(81号)をもって休刊、ニコニコ倶楽部も解散となった。松永によれば、『ニコニコ』は預金者の獲得に大きく貢献したが、不動貯金銀行の千円以上の預金者に無料で配布しており、雑誌としては赤字であった[4]

休刊後、編集長の松永は雑誌を『夢の世界』と改題し、不動貯金銀行から離れ、林田亀太郎らとともに1918年4月から刊行。「非ニコニコ主義」「あきらめ主義」を唱え、政治、社会問題を多く取り上げた。翌1919年11月に再び『ニコニコ』に改題するが、数号で休刊したと見られる[5]

その後、不動貯金銀行が直接発行する機関誌として存続したようだが、詳細は不明[6]

松永敏太郎

1874年(明治7年)10月、徳島生まれ。23歳で台湾に渡り、鉄道建設や日本語教師を経て1900年に帰国。報知新聞社に入社。その後、独立し雑誌の発刊や通信社を興す[7]

1909年に牧野元次郎と出会い、不動貯金銀行に入社。1911年にニコニコ倶楽部理事となり雑誌『ニコニコ』を創刊。松永ニコニコ山人と呼ばれる。『ニコニコ』休刊後の1918年1月に退社。

参考文献

  • 岩井茂樹「「笑う写真」の誕生 : 雑誌『ニコニコ』の役割」[3]『日本研究』国際日本文化研究センター、2020年11月、pp45-67。
  • 大木惇夫『緑地ありや 愛と死の記録』[4](大日本雄弁会講談社、1957年) - ニコニコ編集部時代の回想がある(pp112-113、117-137)。
  • 天沼雄吉『牧野元次郎翁 伝記でない伝記』[5](全国不動会、1973年) - 雑誌『ニコニコ』にもふれている。松永の墓は東慶寺にあるという(pp176-178、198-205)。

注釈

  1. ^ 岩井p53。
  2. ^ 岩井p54。
  3. ^ 岩井p58。
  4. ^ 『夢の世界』7号p52。
  5. ^ 岩井p64。
  6. ^ 東京大学の明治新聞雑誌文庫に昭和9年5月、不動貯金銀行発行の『ニコニコ』がある[1]
  7. ^ 東京毎日新聞社『大日本重役大観』1918、p94。[2]

関連項目




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