テオドロ・デュクレールとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > テオドロ・デュクレールの意味・解説 

テオドロ・デュクレール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 20:16 UTC 版)

テオドロ・デュクレール
Teodoro Duclère
1867年ころのデュクレール
誕生日 (1812-05-24) 1812年5月24日
出生地 ナポリ
死没年 1869年
死没地 ナポリ
テンプレートを表示

カルロ・テオドロ・デュクレール(Carlo Teodoro Duclère、1812年5月24日 - 1869年)は、フランス生まれの父親を持つイタリアの画家である。ナポリの海辺の街、ポジリポなどで風景を描いた「ポジリポ派(Scuola di Posillipo)」の画家の一人である。

略歴

ナポリで生まれた。父親は1788年頃にフランス、セーヌ=エ=マルヌ県で生まれた人物である。父親はナポレオン戦争でフランス軍とイタリアに入って来て、ローマでイタリア女性と知り合い、結婚してナポリに住み、税関の職員として働き安定した暮らしをした[1]

テオドロ・デュクレールは早くから美術に興味を持ち、オランダ生まれの画家ピトルー (Antonie Sminck Pitloo) の私塾で学び、入学年齢に達すると、ピトルーが教授を務めていたナポリ美術アカデミーに入学した。1829年からアカデミーの絵画コンクールに参加し、この頃サルヴァトーレ・フェルゴーラ(1796-1874)やジャチント・ジガンデ(Giacinto Gigante: 1806–1876)といった「ポジリポ派」の画家たちから影響を受けた[2]

アカデミーを卒業した後、南イタリアを旅し、シチリアプッリャ州カンパニア州を訪れた後、ナポリに戻り、1838年に師匠のピトルーの娘と結婚した。

ナポリで美術家として成功した。1849年3月に革命派の政治家パオロ・エミリオ・インブリアーニ(Paolo Emilio Imbriani)に依頼されて、美術アカデミーの改革委員会の委員に選ばれた。南イタリアが、1861年にイタリアに統一された後、いくつかの公的な仕事に参加した[1]

1869年にナポリで亡くなった。

作品

脚注

  1. ^ a b Museo Correale, "Chi era Teodoro Duclère?" @ Con-Fine.com
  2. ^ Biography of Duclère by Luciana Soravia. from the Dizionario Biografico degli Italiani @ Treccani

参考文献

  • Anna Caputi, Raffaello Causa, Raffaele Mormone (Eds.), La Galleria dell'Accademia di Belle Arti in Napoli, Banco di Napoli, 1971
  • Isabella Valente, La scuola di Posillipo. La luce che conquistò il mondo, Mediterranea Edizioni, Napoli, 2019 ISBN 978-88-94260-51-9



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  テオドロ・デュクレールのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「テオドロ・デュクレール」の関連用語

1
6% |||||

テオドロ・デュクレールのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



テオドロ・デュクレールのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのテオドロ・デュクレール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS