ダルマシリ
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ダルマシリ(? - 1367年)は、14世紀半ばに大元ウルスに仕えた大臣の一人。字は遵道。
概要
前半生
ダルマシリはかつてモンゴル高原中央部を根拠地としていたケレイト部の出で、ダルマシリの六世祖にあたる人物から代々上都開平府に居住してきた家に生まれた。ダルマシリの父はアラク・ブカ(阿剌不花)という名で、江西行省参知政事の地位にあった[1]。
ダルマシリは幼いころより鋭敏で、長じると経史の地位を授けられた。1345年(至正5年)には経筵を選て訳史に充てられ、搢紳先生らからも期待されていたという。その後御史台訳史、ついで御史台照磨とされた。1355年(至正15年)、監察御史の地位を拝命したが、僉山北道粛政廉訪司事に一次転任し、その後詹事院長史となった。1356年(至正16年)には詹事院中議、ついで参議詹事院事に昇格となり、さらに1357年(至正17年)には太子家令となった。1358年(至正18年)には秘書太監・吏部侍郎・御史台経歴・中書右司郎中を歴任し、1359年(至正19年)には刑部尚書・提調南北兵馬司巡綽事とされた。このころ、盗賊が首都付近でも起こり恐慌が起こっていたため、ダルマシリは人心を安心させるよう務めていたという。1361年(至正21年)には中書参議から中書参知政事・同知経筵事に昇格となり、1363年(至正23年)冬には上都留守・兼開平府尹とされた[2]。
ボロト・テムルとの対立
1364年(至正24年)、ボロト・テムルが大都を武力制圧し、政治的に対立する皇太子アユルシリダラが逃れるという事件が起こった。ダルマシリはタシュ・テムルらとともにアユルシリダラを支持しており、各地で協力者を募ることによって上都をボロト・テムル配下の将軍から奪取することに成功した[3]。1365年(至正25年)、冀寧路に逃れていたアユルシリダラはダルマシリの成功を受けて上都分省を立て、タシュ・テムルをその平章政事、ダルマシリを右丞に任命した。7月、ボロト・テムル配下のトゲン・テムルが攻め寄せてきたが、夜間に奇襲軍を出すことでこれを撃退することに成功した。ほどなくしてボロト・テムルも殺されてアユルシリダラは朝廷に復帰することができたため、それまでの功績により中書右丞・兼上都留守、ついで中書平章政事・上都留守に任じられた[4]。1366年(至正26年)には大宗正府イェケ・ジャルグチとされ、1367年(至正27年)には太子詹事の地位を拝命した。同年秋には知枢密院事・知大撫軍院事に任じられ、ココ・テムルら地方に派遣された者たちに代わって中央の軍務を一手に担うこととなった[5]。
晩年
しかしある時、アルラト部のカラジャンが夢の中でチンギス・カンより「今の皇帝(ウカアト・カアン)が天命を保てなくなったのはアユルシリダラが家法を壊してしまったためであり、これを改めるよう皇帝およびアユルシリダラに告げよ。ダルマシリはこのことを知りながら口に出さなかった者であり、我がこれを殺すであろう」と伝えられた。カラジャンは目を覚ますと夢のことをウカアト・カアンに告げ、これを受けてウカアト・カアンはダルマシリを呼び出そうとしたが、ダルマシリは既に事切れていたと伝えられる[6]。
脚注
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「達礼麻識理字遵道、怯烈台氏。其先北方大族、六世祖始居開平。父曰阿剌不花、江西行省参知政事、追封趙国公、諡襄恵」
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「達礼麻識理幼穎敏、従師授経史、過目輒領解。至正五年、経筵選充訳史、益自砥礪于学、搢紳先生皆以遠大期之。転補御史台訳史、遂除御史台照磨。十五年、拝監察御史、出僉山北道粛政廉訪司事、未行、留為詹事院長史。俄遷工部員外郎、復留為長史。明年、除中議、尋陞参議詹事院事。十七年、為太子家令。十八年、歴秘書太監・吏部侍郎・御史台経歴・中書右司郎中。十九年、除刑部尚書、提調南北兵馬司巡綽事。盗逼畿甸、人心大恐。達礼麻識理能鎮之以静、民恃以為安。二十一年、由中書参議陞中書参知政事・同知経筵事。二十三年冬、遷上都留守、兼開平府尹、加栄禄大夫、分司土嶺、東鎮三州、以督転輸」
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「二十四年、朝廷以前中書平章政事塔失帖木児来為留守。時孛羅帖木児擁兵京師、而皇太子出居于外、達礼麻識理与塔世帖木児皆以忠義許国、相与結人心以観時変。未幾、改授塔世帖木児為大司農。塔世帖木児謂達礼麻識理曰『我至京師則制于強臣、未易図也』。因留不行。適脱吉児以孛羅帖木児命屯兵蓋里泊、託腹心于宗王也速也不堅、授以金印、俾駐上都之東郊、而以留守善安集兵于瓦吉剌部落。達礼麻識理遇之有礼、善安辞去。孛羅帖木児復調帖木児・託忽速哥至上都、以守禦為名、事益矛盾。達礼麻識理与之周旋、略無幾微見于外、而密遣前宗正札魯忽赤月魯帖木児潜通音問于罕哈哈剌海行枢密知院益老答児、請亟調兵南行。又遣留守司照磨陳恭取兵興州、訪求在閑官吏之有才者、約束東西手八剌哈赤・虎賁司、糾集丁壮苗軍、火銃什伍相聯、一旦布列鉄旛竿山下、揚言四方勤王之師皆至、帖木児等大駭、一夕東走、其所将兵尽潰。由是達礼麻識理増修武備、城守益厳」
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「二十五年、皇太子在冀寧、命立上都分省、達世帖木児為平章政事、達礼麻識理為右丞、便宜行事、以固護根本。七月、禿堅帖木児用孛羅帖木児命以兵犯上都、先遣利用少監帖里哥赤至上都、令広備糧餼、遠迓大軍。達礼麻識理開陳大義、戮之于市、民情乃定。已而禿堅帖木児帥鉄甲馬歩軍蔽野而至、呼声動天。達礼麻識理飭軍士城守、申明逆順之理以安人心、巡視城壁、晝夜不少息。夜遣死士縋城而下、焚其攻具、而調副留守禿魯迷失海牙引兵由小東門出、与之大戦臥龍岡、敗之。未幾、孛羅帖木児伏誅、禿堅帖木児皆奔潰、而上都以安。拝中書右丞、兼上都留守、提調虎賁司、加光禄大夫、賜黄金繋腰、仍命提調東西手八剌哈赤。既而上都分省罷、遥授中書平章政事・上都留守、位居第一、力辞不允」
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「明年、召為大宗正府也可札魯忽赤。又明年、拝太子詹事。奉詔至軍中、宣明大義、藩将感悦。遷翰林学士承旨。秋、除知枢密院事・大撫軍院事。初、大撫軍院之立、皇太子用完者帖木児・答爾麻・帖林沙・伯顔帖木児・李国鳳等計、専以備禦拡廓帖木児、既而政権不一、事務益乖、各復引去、而達礼麻識理之至、事且無可為者」
- ^ 『元史』巻145列伝32達礼麻識理伝,「達礼麻識理之卒也、先一夕、怯薛官哈剌章者、阿児剌氏阿魯図孫也、夜夢太祖召見、語之曰『我以勤労取天下、以伝于妥懽帖睦爾。而愛猷識理達臘不克肖似、廃壊我家法、苟不即改図、天命不可保矣。爾吾功臣之後、且誠実、故召汝語、汝明旦亟以吾言告而主及愛猷識理達臘。汝不以告、吾即殛汝、告而不改、則吾它有処之。達礼麻識理其人庶幾識事宜者、然知而不言、将焉用之、吾其先殛之矣』。明旦、哈剌章入見帝、具以夢告、帝令以告皇太子。比出、則達礼麻識理已無疾而卒矣」
参考文献
- 『元史』145列伝32達礼麻識理伝
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