ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフの意味・解説 

ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ

(ダニロ・ヤコブレヴィチ・アンツィフェロフ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 10:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ (ロシア語: Дани́ла Я́ковлевич Анцы́форов,?-1712年)とは、ロシア帝国の探検家。ロシア人としては始めて千島列島に足を踏み入れたことで知られる。

概要

西シベリアの都市トムスクで生まれ、コサックとしてカムチャッカに移住してきた。

カムチャッカを征服したウラジーミル・アトラソフが亡くなった後、アンツィフェーロフは現地のコサック隊の指導者に選ばれた。

1711年、アンツィフェーロフはイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキーとともに少数のコサックを率いて千島列島最北端のシュムシュ島及びパラムシル島に上陸した。アンツィフェーロフらが千島に進出した理由は現地住民(千島アイヌ)に毛皮税(ヤサーク)を課すことでロシア帝国の支配下に置くこと、また千島列島の住民・地理について情報を得ることにあった。

シュムシュ島に上陸したアンツィフェーロフは現地住民(千島アイヌ)及びロシアの支配を嫌って南下していたイテリメンが居住しているのを発見したが、毛皮税(ヤサーク)の取り立ては千島アイヌの叛乱にあって失敗した。配下のコサックが少数だったこともあって、アンツィフェーロフはやむなく成果なしにカムチャッカに帰還せざるをえなくなった[1]

1712年、アンツィフェーロフはカムチャッカに住まうイテリメン人によって殺されてしまった。千島列島への進出はコズイレフスキーに引き継がれることとなる。

脚注

  1. ^ マウゴジャータ2009, pp.25-26

参考文献

  • ザヨンツ・マウゴジャータ『千島アイヌの軌跡』草風館、2009年



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ」の関連用語

ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS