コルネル・ディヌとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > コルネル・ディヌの意味・解説 

コルネル・ディヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/10 08:01 UTC 版)

コルネル・ディヌ
名前
本名 Cornel Dinu
ラテン文字 Cornel DINU
基本情報
国籍 ルーマニア
生年月日 (1948-08-02) 1948年8月2日(68歳)
出身地 ムンテニア地方、ドゥンボヴィツァ県トゥルゴヴィシュテ
身長 178cm[1]
体重 73kg[1]
選手情報
ポジション DF, MF
ユース
1963-1966 M・トゥルゴヴィシュテ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1966-1983 D・ブカレスト 454 (53)
代表歴
1968-1981 ルーマニア 75 (7)
監督歴
1984-1985 D・ブカレスト
1985-1987 CSトゥルゴヴィシュテ
1987-1988 ASAタルグ・ムレシュ
1988 オツェルル・ガラツィ
1989 U・クルジュ
1989-1990 / O・スコルニセシュティ
1992-1993 ルーマニア
1996 D・ブカレスト
1998-2001 D・ブカレスト
2002-2003 D・ブカレスト
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

コルネル・ディヌルーマニア語: Cornel Dinu, 1948年8月2日 – )は、ルーマニアトゥルゴヴィシュテ出身のサッカー選手。FCディナモ・ブカレストの歴代最多出場記録保持者である。選手としてはルーマニア代表で75試合に出場し、指導者としてもルーマニア代表監督を務めた。ポジションは攻撃的スイーパー、守備的ミッドフィールダー

経歴

選手経歴

クラブ

ルーマニアの南東部、ムンテニア地方・ドゥンボヴィツァ県トゥルゴヴィシュテに生まれ、1963年から1966年までメタルル・トゥルゴヴィシュテの下部組織に所属した。1960年代前半のディヴィジア1(1部)ではFCディナモ・ブカレストが4連覇を達成しており、ディヌは1966年にディナモに移ると、同年のトップチームデビューから1983年に現役引退するまでディナモ一筋のサッカー人生を送った。1963年には3歳年上のミルチェア・ルチェスクがディナモに加入しており、ディヌとルチェスクは1960年代後半から1970年代のディナモを牽引した。1970-71シーズンには移籍後初のリーグ優勝を果たし、1972-73シーズンにも優勝した。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦のクルセイダーズFC(北アイルランド)戦セカンドレグで11-0という大勝を記録し、現在でも同大会における最大得点差記録となっている。1974-75シーズンにもリーグ優勝し、32得点を挙げたチームメイトのドゥドゥ・ゲオルゲスクヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。自身4度目のリーグ優勝を果たした1976-77シーズンにも、ゲオルゲスクは2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いている。1981-82シーズンのUEFAカップ2回戦ではインテル(イタリア)と対戦し、ジュゼッペ・バレージアレッサンドロ・アルトベッリヘルベルト・プロハスカなどがいる格上から金星を挙げた。同シーズンにはリーグ戦で自身5度目の優勝を果たし、1982-83シーズンには2連覇を達成した。ディナモ在籍中、ルーマニア年間最優秀選手賞英語版には1970年、1972年、1974年の3度選出され、1968年と1973年の2度2位となった。ディナモではリーグ戦454試合に出場し、ディヴィジア1では6度、クパ・ロムニエイでは2度優勝したが、出場試合数は現在でもクラブ歴代最多出場記録である。ディヌ在籍時のディナモはUEFAチャンピオンズカップに5度出場しているが、2回戦の壁を超えられなかった。しかし、ディヌ引退直後の1983-84シーズンには準決勝に進出している。

代表

1968年5月1日、オーストリア戦 (1-1) でルーマニア代表デビューした[1]。ルーマニア代表は1966 FIFAワールドカップまで5大会連続でヨーロッパ予選敗退に終わっていたが、1970年にはアンジェロ・ニクレスク監督に導かれ、1970 FIFAワールドカップに出場。グループリーグでは前回大会優勝のイングランド、2度優勝のブラジルチェコスロバキアと同組となり、1勝2敗の3位でグループリーグ敗退に終わったが、イングランド戦・ブラジル戦はいずれも1点差での敗戦だった。ルーマニアの主要選手にはキャプテンのミルチェア・ルチェスク、ラドゥ・ヌンヴェイラー、フロレア・ドゥミトラチェなどがおり、ディヌ自身は3試合すべてにフル出場した。1950年代から1980年代までの30年間で、ルーマニアがFIFAワールドカップに出場したのは1970年大会が唯一である。1972年のフランス戦で初得点を挙げ、1980年のハンガリー戦では1試合2得点を挙げた[1]

ルーマニアがUEFA欧州選手権本大会に初出場したのは、ディヌの現役引退後の1984年大会である。1981年までに75試合に出場して7得点を挙げ、75試合のうち38試合でキャプテンを務めたが、これは2013年時点でゲオルゲ・ハジ(65試合)、クリスティアン・キヴ(50試合)、コスティカ・シュテファネスク(43試合)に次ぐ歴代4位の数字である。

指導者経歴

1984年には古巣ディナモの監督に就任し、その後はいくつかの中小クラブの監督を務めた。1992年、ミルチェア・ラドゥレスク英語版の後任としてルーマニア代表に就任し、選手時代にライバルのFCステアウア・ブカレストのエースとしてディヌの好敵手だったアンゲル・ヨルダネスクに引き継ぐまで指揮を執った。1990年代後半以降には3度に渡ってディナモの監督に就任し、アドリアン・ムトゥなどを擁した1999-2000シーズンには、ディヴィジア1クパ・ロムニエイの2冠を達成。1990年代のディナモはタイトルから遠ざかっていたため、ディヴィジア1制覇は8シーズンぶりであり、2冠は10シーズンぶりだった。ルーマニアのスーパーカップであるスーペルクパ・ロムニエイは、単一クラブが2冠を達成した場合には行なわれないため、2000年のスーペルクパは行なわれず、優勝クラブなしとなっている。クパ・ロムニエイでは2000-01シーズンに2連覇を達成した。2000-01シーズン途中には、ディナモのキャプテンを務めていたカタリン・ヒルダンが親善試合中に心停止を起こし、そのまま亡くなるという悲劇があった。2001年にいったんディナモの監督を退いたが、2002年に再び就任して2003年まで指揮した。2002-03シーズン最後までは指揮をとらなかったが、このシーズンのディナモはスーペルクパ・ロムニエイで準優勝し、クパ・ロムニエイで優勝している。

タイトル

選手時代

クラブ
FCディナモ・ブカレスト
個人
  • ルーマニア年間最優秀選手賞英語版 (3) : 1970, 1972, 1974

指導者時代

  • FCディナモ・ブカレスト
ディヴィジア1 (1) : 1999-2000
クパ・ロムニエイ (2) : 1999-2000, 2000-2001

脚注

  1. ^ a b c d Cornel DINURomanian Soccer

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コルネル・ディヌ」の関連用語

コルネル・ディヌのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コルネル・ディヌのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコルネル・ディヌ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS