ゲイ・アイコンとしてのジュディ・ガーランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 08:56 UTC 版)

アメリカ合衆国の女優・歌手のジュディ・ガーランド(1922 – 1969年)は、広くゲイ・アイコンとして認知されている。
アドヴォケート誌はガーランドを同性愛者のエルヴィスと称している[1]。彼女がゲイ男性の間でアイコンとしての地位を確立した理由としてよく挙げられるのは、彼女のパフォーマーとしての能力への賞賛と、彼女の個人的な苦闘が彼女の全盛期におけるアメリカのゲイ男性の苦闘と重なるように見えたこと、そして彼女のキャンプな肖像としての存在価値である[2]。ガーランドの『オズの魔法使』での役であるドロシー・ゲイルは、とりわけこの地位の一助になったことで知られている。1960年代に記者からゲイからの絶大な支持を持つことについてどう感じているか聞かれた際には、「全然気にしません!私は人々のために歌います!」と返している[3]。
悲劇の人物としてのガーランド
ガーランドとゲイを同一視する側面は、早くも1967年にはメインストリームで議論されていた。タイム誌は、ガーランドの1967年のパレス劇場公演のレビューにて、「彼女の毎晩のさくら[4]の過半数は同性愛者のように見える」と侮蔑的に述べており、「タイトなズボンを履いた若者たち」([t]he boys in the tight trousers[5][7])は、ガーランドのパフォーマンス中に「目をぐるりと回し、髪の毛をかきむしり、ほぼ座席から浮き上がる」だろうと続けている。タイム誌がガーランドが同性愛者にとってなぜ魅力的であるかを説明するために見解を求められた精神科医達は、「彼女が非常に多くの困難を切り抜けてきたという事実は、(ガーランドへの)魅了をかなりより強固なものにさせるかもしれない、同性愛者はそのような悲劇に共鳴する」「ジュディは人生に打ちのめされ、追い詰められ、そして最終的にはより男らしくならざるをえなかったが、彼女は同性愛者が望む力を持っており、彼らは彼女を崇拝することでそれを得ようとする」と思量する[5]。
ライターのウィリアム・ゴールドマンは同様のパレス公演に関するエスクァイア誌への寄稿にて、会場にいたゲイ男性達を再び軽蔑し、くだらないおしゃべりをしながら動き回るカマ野郎(fags)と切り捨てる。しかしながら、同様に悲劇的人物論も展開する。「もし(同性愛者に)敵がいるとすれば、それは年齢だ。そしてガーランドは、永遠に虹の向こうの若さなのだ。[8]」と示唆した後に、こう記した。
同性愛者たちは、苦難を自身と同一視する傾向にある。彼らは迫害された集団であり、苦難を理解している。そしてそれはガーランドもそうだ。彼女は苦難を乗り越えて生きてきた – あらゆる飲酒や離婚、あらゆる薬やあらゆる男、あらゆる財産の出入り – 兄弟と姉妹だと、彼女は知っている[8]。
オープンリーゲイコメディアンのボブ・スミスは、悲劇的人物論にコミカルな解釈を提示しており、「エルヴィス・キング」と「ジュディ・クイーン」を想像し、アイドルを論ずる。
エルヴィスは飲酒問題を抱えていた。
ジュディはエルヴィスを飲み負かした。
エルヴィスはより体重が減った。
ジュディはより体重が減った。
エルヴィスは鎮痛剤中毒だった。
ジュディの痛みを止める薬は無かった![9]
キャンプとしてのガーランド
ゲイ映画学者のリチャード・ダイアーは、ジュディ・ガーランドのキャンプな魅力を論じる中で、キャンプを「支配的な文化の価値観やイメージ、産物を、皮肉、誇張表現、平凡化、芝居がかった表現、そして真剣で尊敬に値するものを揶揄いそして作り出すという相反性を通して扱う特徴的なゲイの作法」と定義しており[10]、ガーランドがキャンプなのは、彼女が「模倣可能で、ドラァグの芝居において彼女の容姿や身振りは複製可能」なためだと主張する[10]。彼女の初期のMGM映画での「平凡さ」は「失敗した真面目さ」の面でキャンプであり、後期のスタイルは「素晴らしく大袈裟」であると考えている[10]。
ドロシーの友達

ガーランドとLGBTQコミュニティ間のその他の繋がりには、ガーランドが『オズの魔法使』で演じたドロシー・ゲイルに由来するとされるスラング「ドロシーの友達」などがあり、これはゲイ男性がお互いを認識するために用いる暗号となった。カンザスからオズへのドロシーの旅は「小さな町の白黒つける制約から逃れ......彼らを歓迎するであろう風変わりでジェンダーを超越したキャラクターでいっぱいの、大きくてカラフルな都市を求む多くのゲイ男性の渇望を反映していた[11]」。
映画の中で、ドロシーは(バート・ラーによる非常にキャンプな演技の)臆病なライオンなど、異なる存在を即座に受け入れている。ライオンは自身のことを歌を通して「女々しい」と捉えており、ステレオタイプの「ゲイ」のような(もしくは少なくとも軟弱な)特徴を見せる。 ライオンは、ガーランドがゲイの男性と出会い何の疑問も無しに受け入れることをコード化した例として見られている[12][13]。
2001年のドキュメンタリー映画「Memories of Oz」では、ゲイのカルト映画監督であり社会風刺家のジョン・ウォーターズが子供の頃に『オズの魔法使』を見た時のことをこう語っている。
(私は、)観客の中でなぜドロシーがカンザスへ戻りたがっていたのか常に不思議に感じていた唯一の子供だった。彼女はなぜカンザスへ戻りたいのか。私にとっては服装がひどくて意地悪そうな叔母のいる、この退屈な黒と白の農場へ。魔法の靴を履き、羽根の生えた猿やゲイのライオンと暮らせるという時に?さっぱり理解できなかった[14]。
2020年のコメディ短編映画『Digging Up Dorothy』では、ジュディ・ガーランドの死後数十年を経てもなお、彼女に夢中なドラァグクイーンが描かれている[15]。
ストーンウォールの反乱

1969年6月27日のガーランドの葬儀を、現代のゲイ解放運動の着火点である[16]、翌日の6月28日早朝に始まったストーンウォールの反乱との関連性を示唆する者もいる[17]。反乱を目撃した者の一部は、関与した者の大半は「ジュディ・ガーランドのレコードに夢中になったり、カーネギー・ホールでの彼女のコンサートに足を運ぶようなタイプではなかった。彼らはむしろ、どこで寝るか、どこで次の食事にありつくかということに没頭していた」と主張している[18]。しかしながら、 同じ歴史ドキュメンタリーではその夜ストーンウォール・バーには何人かのガーランドのファンである常連客がいたことが示されており、バーの常連客のシルヴィア・リヴェラによれば、彼らはその日早くに行われた非常に感情的なガーランドの葬儀から酒を飲み弔うために来ていたという。リヴェラは、その夜何かが起こるであろう予感が確かにあり、「ジュディ・ガーランドの死は私達にとって本当に大変なことだったと思う[19]」と述べた。
ストーンウォール・インの常連客の間では、確かにガーランドへの認知と評価ががあった。バーは酒類販売免許を持たなかったため、ボトルクラブとして偽装され、客は入店時に署名を求められた。多くの客が偽名を用い、「ジュディ・ガーランド」は最も人気のある偽名の一つであっ[20]。事実かどうかにかかわらず、ガーランド/ストーンウォールの繋がりは続いており、ナイジェル・フィンチによる反乱に至るまでの出来事を描いた長編映画『Stonewall』でフィクション化されている。主要キャラクターのボストニアはテレビでガーランドの葬儀を見て嘆き悲しむ様子が描かれ、後に警察の強制捜査中にガーランドの曲が流れるジュークボックスを止めるのを拒み、「ジュディは消えない」と宣言する[21]。
タイム誌は十数年後にこうまとめた。
反乱は、鬱積した怒り(ゲイバーへの襲撃は残忍で日常的であった)、昂る感情(数時間前、ジュディ・ガーランドの葬儀では何千人もの人が涙を流していた)、そしてドラッグが混ぜ合わさった強力なカクテルによって引き起こされた。17歳のクロスドレッサーが警官に連行され、パトカーに突き飛ばされた時、彼女は抵抗した。(彼女は)警官を殴り、とても酔っており、自分が何をしているのか知らなかった、あるいは気にしていなかった[22]。
ガーランドの娘 ローナ・ラフトはプライドとの繋がりを指摘し、彼女の母は「非常に熱心な人権活動家」であり、ガーランドは反乱が適切だとわかっていただろうと述べている[23]。
レインボー・フラッグ
もう一つの繋がりはLGBTQコミュニティのシンボルレインボーフラッグであり、ガーランドの楽曲「Over the Rainbow」に一部影響を受けたとされている[24]。ガーランドのこの曲のパフォーマンスは、「メインストリームの社会が許容しないであろうより真の自己像としばしば矛盾しながらも、公の場で提示してきた」姿を持つゲイ男性に語りかける、「クローゼットの音楽」と評された[11]。
家族と友人
ジュディ・ガーランドの父やその他の彼女の人生における重要人物もまたゲイであった[25]。彼女の父であるフランク・ガムは、非常に若い男性か年上の10代を誘惑するか少なくとも付き合っていたようだが、別れるように言われるかこの行動が発覚する前には踏ん切りを付けている[26]。ガーランドの2番目の夫のヴィンセント・ミネリはクローゼットのバイセクシャルであると噂され[27][28]、また、4番目の夫であるマーク・ヘロンは長きにわたり俳優のヘンリー・ブランドンと関係を持っており、ガーランドとの結婚では少しの間それが中断されただけだった[29]。彼女は娘のライザを後のライザの最初の夫であり、同様にゲイのオーストラリアの歌手であるピーター・アレンに紹介している。ガーランドはハリウッドでのキャリア当初からオープンリーゲイの友人であるロジャー・イーデンスやチャールズ・ウォルタース、ジョージ・キューカーと共にゲイバーへ好んで訪れており、MGMの担当者を困惑させていた[30]。
関連項目
- LGBTQの歴史
- ゲイ・アイコンとしてのシェール
- ゲイ・アイコンとしてのジャネット・ジャクソン
- ゲイ・アイコンとしてのマドンナ
- ゲイ・アイコンとしてのホイットニー・ヒューストン
- en:He-Man as a gay icon
- ニュー・クィア・シネマ
- クィア理論
脚注
- ^ Walters, Barry (October 13, 1998). An icon for the ages. The Advocate. pp. 87
- ^ Dyer, p. 156
- ^ Kinser, Jeremy (2014年10月19日). “Here's How Judy Garland Felt About Her Gay Fans And What Might Have Happened If She Hadn't Died In 1969”. Queerty. 2019年5月10日閲覧。 “In a 1965 press conference – in San Francisco, actually – she was asked how she felt about her gay following. She told those gathered, "I couldn't care less. I sing to people!"”
- ^ 観客を嫌味でさくら(claque)と表現
- ^ a b “Seance at the Palace”. Time. (1967-08-18). オリジナルのDecember 15, 2008時点におけるアーカイブ。 2007年12月26日閲覧。.
- ^ “Old Gal in Town”. Time. (1967-10-20). オリジナルのDecember 15, 2008時点におけるアーカイブ。 2007年12月26日閲覧。.
- ^ タイム誌がゲイ男性を説明する際に繰り返し使用したフレーズで、別のゲイ・アイコンであるマレーネ・ディートリヒへは、「タイトなズボンを履いた恍惚とした若者たちが通路を跳ね回り、バラの花束を投げる」というように述べていた[6]。
- ^ a b Goldman, William (1969年1月). “Judy Floats”. Esquire
- ^ Smith, p. 68
- ^ a b c Dyer, p. 176
- ^ a b Frank, Steven (2007年9月25日). “What does it take to be a gay icon today?”. AfterElton.com. オリジナルの2007年12月10日時点におけるアーカイブ。 2007年12月26日閲覧。
- ^ Brantley, Ben; The New York Times: Jun 28, 1994. pg. C.15.
- ^ Paglia, Camille. Judy Garland As a Force Of Nature; The New York Times: Jun 14, 1998.
- ^ Memories of Oz - The Wizard of Oz (3-Disc Collector's Edition DVD) 2005
- ^ “'Digging up Dorothy' Short Film released in UK” (2020年7月28日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ Bianco 1999, p. 194; Duberman 1993, p. ix.
- ^ Bianco 1999, p. 194.
- ^ Loughery, p. 316
- ^ "Stonewall Riots 40th Anniversary: A Look Back at the Uprising that Launched the Modern Gay Rights Movement," democracynow.org, June 26, 2009. Accessed November 29, 2011
- ^ Kaiser, p. 198
- ^ Finch, Nigel (1995). Stonewall.
- ^ Cloud, John (2003-03-31). “June 28, 1969”. Time. オリジナルのSeptember 30, 2007時点におけるアーカイブ。 2007年12月26日閲覧。.
- ^ Harrity, Christopher (2006年6月9日). “Judy's stamp of approval”. The Advocate. オリジナルの2008年9月21日時点におけるアーカイブ。 2007年12月25日閲覧。
- ^ Gay Almanac, p. 94
- ^ Gerald Clarke, Get Happy: The Life of Judy Garland (Random House, 2000; ISBN 0-375-50378-1), p. 14.
- ^ Clarke, p. 23.
- ^ Clarke, p. 209.
- ^ Emanuel Levy, Vincente Minelli: Hollywood's Dark Dreamer. St. Martin's Press, 2009, p. 26. ISBN 0-312-32925-3.
- ^ Lynn Kear, James King, Evelyn Brent: The Life and Films of Hollywood's Lady Crook, McFarland, 2009, p.224
- ^ Clarke, p. 130-131.
参考文献
- Bianco, David (1999). Gay Essentials: Facts For Your Queer Brain. Los Angeles: Alyson Publications. ISBN 1-55583-508-2
- Duberman, Martin (1993). Stonewall. New York: Dutton. ISBN 0-525-93602-5
- Dyer, Richard (1986). Heavenly Bodies: Film Stars and Society. British Film Institute. ISBN 0-415-31026-1.
- Kaiser, Charles (1997). The Gay Metropolis 1940 – 1996. New York, Houghton Mifflin. ISBN 0-395-65781-4.
- Loughery, John (1998). The Other Side of Silence: Men's Lives and Gay Identities: A Twentieth Century History. Henry Holt and Company. ISBN 0-8050-3896-5.
- Miller, Neil (1995). Out of the Past: Gay and Lesbian History from 1869 to the Present. Vintage UK. ISBN 0-09-957691-0.
- The National Museum & Archive of Lesbian and Gay History (1996). The Gay Almanac. New York City, Berkeley Books. ISBN 0-425-15300-2.
- Smith, Bob (1997). Openly Bob. New York, William Morrow and Company. ISBN 0-688-15120-5.
外部リンク
- ゲイ・アイコンとしてのジュディ・ガーランドのページへのリンク