エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)の意味・解説 

エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/19 13:01 UTC 版)

エズメ・ステュワート
Esmé Stewart
第3代レノックス公
在位 1624年1月16日 - 7月30日

称号 マーチ伯
第7代オービニー領主
コブハム領主
出生 1579年
死去 1624年7月30日
イングランド王国ノーサンプトンシャー、カービー・ホール
埋葬 1624年8月6日
イングランド王国ウェストミンスター寺院
配偶者 キャサリン・クリフトン
子女 本文参照
家名 ステュアート・オブ・ダーンリー家
父親 初代レノックス公エズメ・ステュワート
母親 カトリーヌ・ド・バルサック
テンプレートを表示

第3代レノックス公エズメ・ステュワート(Esmé Stewart, 3rd Duke of Lennox, 1579年 - 1624年7月30日)は、スコットランド貴族。父方でイングランド王ジェームズ1世のはとこにあたる。劇作家ベン・ジョンソンのパトロンであり、ジョンソンは5年間レノックス公の家に住んでいた。

生涯

エズメは、スコットランド系フランス人でスコットランド王ジェームズ6世の寵臣であった初代レノックス公エズメ・ステュワート(1542年 - 1583年)と、その妻カトリーヌ・ド・バルサック(1630年以降没)の次男である。母カトリーヌは、アントラーグ卿ギヨーム・ド・バルサックとその妻ルイーズ・デュミエールの娘であった。

1608年2月9日、エズメはホワイトホール宮殿で、ハディントン子爵ジョン・ラムゼイとエリザベス・ラドクリフの結婚を祝うため、仮面劇『The Hue and Cry After Cupid』に出演した[1]

子のなかった兄、第2代レノックス公・初代リッチモンド公ルドヴィック・スチュワート(1574年 - 1624年)の死後、リッチモンド公位は消滅したため、父方のレノックス公位を継承した。エズメは当時、イングランド貴族のマーチ伯位(1619年)と妻の権利に基づきレイトン・ブロムズウォルドのクリフトン男爵位を既に受けていた[2]。エズメは父の死後、兄が継承しなかった[3]フランスの第7代オービニー領主となった[4][5][6]

1624年4月22日、ガーター騎士とされた[7]

1624年7月30日にノーサンプトンシャーのカービー・ホールで「斑点熱」で亡くなり[8]、1624年8月6日にウェストミンスター寺院の、ヘンリー7世(王位に就く以前リッチモンド伯であった)の礼拝堂の南東後陣礼拝堂にあるリッチモンド納骨堂に埋葬された[9]

結婚と子女

第3代レノックス公の2人の息子は、その兄ジョージと共に、内戦中に王党派として戦い若くして亡くなった。左:ジョン(1621年 - 1644年)、23歳で戦死。右:バーナード(1623年 - 1645年)、22歳で戦死。(1638年頃、サー・アンソニー・ヴァン・ダイク作、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)

1609年、エズメは第2代クリフトン女男爵キャサリン・クリフトンと結婚し、11人の子供をもうけた。彼らはチャールズ1世の従兄弟であり、その多くがイングランド内戦で戦死した[10]

  • エリザベス(1610年 - 1674年) - 第22代アランデル伯ヘンリー・ハワードと結婚
  • ジェイムズ(1612年 - 1655年) - 第4代レノックス公、初代リッチモンド公
  • アン(1614年 - 1646年) - 初代オーモンド伯アーチボルト・ダグラスと結婚
  • ヘンリー(1616年 - 1632年) - 第8代オービニー領主。ブールジュ(旧ベリー県の県都でオービニーがあった)およびパリで学び、その後政治家の初代ポートランド伯リチャード・ウェストン(妹の夫の父)とともにヴェネツィアを訪れ、そこで17歳で亡くなり、ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会に埋葬された[11]
  • フランシス(1616年 - 1617年) - 早世
  • フランセス(1617年 - 1694年) - 第2代ポートランド伯ジェローム・ウェストンと結婚
  • マーガレット(1618年) - 早世
  • ジョージ(1618年 - 1642年) - 第9代オービニー領主。イングランド内戦で王党派として戦い、24歳で戦死。第2代サフォーク伯テオフィラス・ハワードの娘キャサリン・ハワード(1650年没)と結婚。彼女との間に第3代リッチモンド公・第6代レノックス公チャールズ・スチュアート(1638年 - 1672年)をもうけた。チャールズはロンドンのコブハム・ホールとリッチモンド・ハウスの住人で、オービニーのスチュアート家男系の末裔。また、幼い従弟エズメ・ステュワート(第2代リッチモンド公爵、第5代レノックス公爵、1649年 - 1660年)の跡を継いだ。エズメ・スチュアートはコブハム・ホールの住人で第4代レノックス公ジェイムズ・ステュワート(1612年 - 1655年)の息子で跡継ぎである。
  • ルドヴィック(1619年 - 1665年) - 枢機卿[2]
  • ジョン(1621年 - 1644年) - イングランド内戦で王党派として戦い23歳で未婚のまま戦死した。
  • バーナード(1623年 - 1645年) - イングランド内戦において王党派として戦い、22歳で未婚のまま戦死した。戦争での功績によりリッチフィールド伯に叙される予定であったが、手続きが完了する前に死去したため、爵位は甥のチャールズ・スチュワート(1638年 - 1672年、後の第3代リッチモンド公・第6代レノックス公)に与えられた。

脚注

  1. ^ Lodge 1838, p. 223.
  2. ^ a b  この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Lennox”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 420.
  3. ^ Cokayne 1929, p. 604.
  4. ^ Cokayne 1929, p. 607.
  5. ^ Macpherson, Rob (2004). “Stuart [Stewart], Ludovick, second duke of Lennox and duke of Richmond”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/26724. ISBN 978-0-19-861412-8. 2022年5月21日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  6. ^ Smuts, R. Malcolm (2004). “Stuart, Esmé, third duke of Lennox (1579?–1624), nobleman”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/67529. ISBN 978-0-19-861412-8. 2022年5月21日閲覧. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  7. ^ Cokayne 1929, p. 608.
  8. ^ Nichols 1828, p. 985.
  9. ^ Ludovic, Frances & Esme Stuart”. 2025年10月19日閲覧。
  10. ^ Cust 1891, pp. 98–99.
  11. ^ de la Thaumassiere 1689, p. 697.

参考文献

公職
先代
オリバー・セントジョン
ハンティングシャー総督
(オリバー・セントジョンと共治)

1619年 - 1624年
次代
オリバー・セントジョン
マンデヴィル子爵
スコットランドの爵位
先代
ルドヴィック・スチュワート
レノックス公
1624年
次代
ジェイムズ
イングランドの爵位
新設 マーチ伯
1619年 - 1624年
次代
ジェイムズ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)」の関連用語

エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エズメ・ステュワート (第3代レノックス公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエズメ・ステュワート (第3代レノックス公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS