エサルハドンの戦勝記念碑とは? わかりやすく解説

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エサルハドンの戦勝記念碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 20:03 UTC 版)

エサルハドンの戦勝記念碑
現在展示されている戦勝記念碑。
材質ドレライト
寸法3.46m x 1.35m
文字アッカド語(楔形文字
製作前670頃
発見1888年
所蔵ペルガモン博物館
識別VA2708

エサルハドンの戦勝記念碑Victory stele of Esarhaddon、またはZenjirli[1]Zincirli stele)は、前671年に北エジプトで行われたエジプト王タハルカ英語版に対するアッシリア王エサルハドンの2度目の戦いと勝利、そして帰還を記念したドレライト[2]の石碑である。1888年にズィンジリ・ホユック英語版(Sam'al、またはYadiyaとも)でフェリックス・フォン・ルシャン英語版ロベルト・コルデウァイ英語版が発見した。現在はベルリンペルガモン博物館に収蔵されている。

エサルハドンがレヴァントに初めて侵入した後、前674年に行われたエサルハドンとタハルカの最初の戦いはタハルカが勝利した[3]。この時エサルハドンはレヴァント侵攻後、北部エジプトに侵入したがタハルカの軍勢によって撃退された。

前671年の2度目の戦いではタハルカは軍と共にメンフィスに引いた。メンフィスが占領されると共に、タハルカはクシュへと逃亡した。エサルハドンは「村人たちを殺戮し、彼らの頭を山のように積み上げた[3]」と後に書いている。彼はこの勝利について「余は彼の居城メンフィスを包囲し、坑道、破口、攻城梯子をもちいて、半日のうちに占領した。余は(メンフィス市を)略奪し、破壊し、火をかけた。彼の妃、ハレム、王太子[58]ウシャナフル、その他の王子や王女たち、(それに)彼の財貨、馬、牛、小家畜を数えきれないほど、戦利品としてアッシリアに運んだ。余はクシュ(の勢力)をエジプトから根絶した。余に対する恭順(の確保)のために、そこ(エジプト)にだれひとり(クシュ人を)残すことはしなかった[4]。」と記した。

解説

この石碑の左側にはエサルハドンが「アパ・ラバーヌ」の仕草(バビロニア式の礼拝動作で、物を持ちながら右手を鼻に近づけるというもの)を取りながら立っている。彼は左手に、メイスと共に紐を持ち、その紐は彼の前に膝まづく二人の征服された王の唇に通された輪に繋がっている。彼の右手は神々に呼びかけている。浮彫の中段部分全体が楔形文字碑文で覆われている。エサルハドンの前に膝まづいている無名の嘆願者の正体は議論の的である。この人物はエサルハドンとテュロスのバアルの条約英語版で言及されているテュロス王英語版バアル1世英語版[5]、またはシドンの王アブディ・ミルクッティ英語版である可能性がある[6]。両者の間で跪いている人物は首に紐を巻かれたウシャナフル王子(Ushankhuru)か[5]、エジプト王権の象徴であるウラエウスを身に着けていることから、タハルカ英語版本人である可能性もある。

脚注

  1. ^ Spalinger 1974, pp. 295–326.
  2. ^ Verzeichnis der in der Formerei der Königl. Museen käuflichen Gipsabgüsse (1902) page 20
    (『王立の塑像物販売店のリスト。博物館で購入可能な塑像物』(1902年、20ページ))
  3. ^ a b National Geographic Magazine 2008, p. 58.
  4. ^ 訳文は佐藤 1991, pp. 108-109に拠った。
  5. ^ a b Spalinger 1974, pp. 303–304.
  6. ^ Porter 1997.

参考文献

  • 佐藤進「選ばれてあることの恍惚と不安-エサルハドンの場合」『古代オリエントの生活』河出書房新社〈生活の世界歴史1〉、1991年5月、107-168頁。ISBN 978-4-309-47211-9 
  • National Geographic Magazine (2008). Black Pharaohs. 
    (『黒人のファラオ』(ナショナル・ジオグラフィック、2008年、p58))
  • Porter, Barbara Nevling (1997). “Language, Audience and Impact in Imperial Assyria”. In Izre'El, Shlomo; Drorp, Rina (英語). Language and Culture in the Near East (Israel Oriental Studies). Brill Academic Publishers. https://books.google.com/books?hl=en&lr=&id=majtzzdiaEEC&oi=fnd&pg=PA51&dq=abdi-milkutti&ots=dAVpGvxXEP&sig=VcOhkOlLA8WdJAxTzJsEthYSpl4#PPA60 
    (『アッシリア帝国における言語、聴衆と影響』(著:バーバラ・ネヴリング・ポーター、1997年、『近東における言語と文化』(編:シュロモ・イズレエル、リナ・ドロープ、ブリル出版)に収録されている))
  • Spalinger, Anthony (1974). “Esarhaddon and Egypt: an analysis of the First Invasion of Egypt”. Orientalia 43. 
    (『エサルハドンとエジプト:第1回遠征の分析』(著:アンソニー・スパリンガー、1974年、『オリエンタリア』(グレゴリアン大学聖書出版(イタリア))第43号に収録))

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