イナト・クチャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 05:07 UTC 版)
オーストリア=ハンガリー帝国がサラエヴォを含むボスニア・ヘルツェゴビナを支配していた時代の1914年、帝国はサラエヴォの旧市街に市役所と図書館のための土地を求めた。その予定地には2つのハマムとともに1つの家があり、その所有者に売却を求めたものの、所有者はそれを拒み続けた。帝国当局が所有者を脅迫するに至り、ようやくその所有者はその土地を立ち退き、当局への遺恨の意思を示すため、家を解体して一片一片移動させ、ミリャツカ川の対岸に家を再建した。この家は、「遺恨の家」を意味する「イナト・クチャ」(Inat kuća)の名でレストランとして営業されている。
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