イオアネ_(ムフラニ公)とは? わかりやすく解説

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イオアネ (ムフラニ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/15 05:20 UTC 版)

イオアネ
იოანე

在位期間
1778年1801年
先代 スヴィモン
次代 コンスタンティネ4世

出生 1755年12月12日
死亡 1801年10月1日
家名 ムフラニ家グルジア語版
父親 コンスタンティネ3世
母親 バルバレグルジア語版
配偶者 ケテヴァン
信仰 ジョージア正教会
親署
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ムフラニ公イオアネグルジア語: იოანე მუხრანბატონიグルジア語ラテン翻字: Ioane Mukhranbatoni1755年12月12日1801年10月1日)は、カルトリ=カヘティ王国の外交官、軍司令官。 1778年から1801年までムフラニバトニ)、内カルトリグルジア語版サルダリ(司令官)、そしてカルトリ=カヘティ王宮のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)を務めた[1]

生涯

イオアネはムフラニ公コンスタンティネ3世と妻バルバレグルジア語版の子として生まれた。1778年、一族のスヴィモンの隠居に伴い、ムフラニ家の家督を継承した。イオアネはカルトリ=カヘティ王エレクレ2世グルジア語版の娘ケテヴァンと結婚し、エレクレ2世の義理の息子となった。イオアネは王国において複数の高位の官職を兼任し、内カルトリグルジア語版サルダリ(司令官)として地方軍を統率し、また王宮のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)として宮廷を指揮監督した[1]

1783年、イオアネはガルセヴァン・チャヴチャヴァゼグルジア語版とともに王国の全権代表を務め、ギオルギエフスク条約グルジア語版に署名した。これにより王国はロシアによる保護[2]とバグラティオニ家による王位の維持を約束された[3]。ただし両名は外交経験をほとんど持たず、ロシア語を話すことさえできなかった。そのため両名は、条約のロシア語版に何が書かれているのか知らなかった[4]

イオアネは1786年から1795年まで、カルトリ=カヘティの属国エレヴァン・ハン国グルジア語版の軍政長官を務めた。1786年にはナヒチェヴァン・ハン国グルジア語版がエレクレ2世の覇権に対して起こした反乱を鎮圧した。1795年、イランによるトビリシ侵攻グルジア語版ではジョージア軍の左翼隊を指揮したが、ロシアの支援を受けられず大敗北を喫した[5][6]

イオアネは、カルトリ=カヘティ王国とイメレティ王国との統合案が議論された際、王妃ダレジャングルジア語版とともに強く反対し、他の高官との間で激しく論争した。イオアネは反対理由について、「我々はカルトリ=カヘティさえ面倒を見ることができないのに、どうしてイメレティまで面倒を見ることができようか」と公然と表明したと記録されている[1]

イオアネは1801年に死去した。ムフラニ公は息子コンスタンティネ4世に引き継がれたが、その直後にカルトリ=カヘティ王国はロシアに併合され、ムフラニ公の主権封建領主としての地位も廃止された。以後、子孫はロシア帝国の貴族籍に編入され、バグラチオン=ムフランスキー公爵家として遇された[5]

家族

イオアネはカルトリ=カヘティ王エレクレ2世グルジア語版の娘ケテヴァンと結婚し、7人の子供をもうけた[7]

  • コンスタンティネ4世 (1782–1842)
  • テイムラズ (1784–1833)
  • グリゴルロシア語版 (1787–1861)
  • バルバレ (1790–1843)
  • ダヴィト (1793–1878)
  • タマル (1798–1851)
  • イラクリ (1800–1816)

脚注

  1. ^ a b c ნინიძე, დავით (1997). მუხრანბატონები (PDF) (グルジア語). თბილისი: მერიდიანი. p. 56.
  2. ^ Gvosdev, Nikolas K. (2000). Imperial policies and perspectives towards Georgia, 1760–1819. New York: Palgrave. p. 55. ISBN 0312229909.
  3. ^ Treaty of Georgievsk, 1783 Archived 2018-03-16 at the Wayback Machine.. PSRZ, vol. 22 (1830), pp. 1013-1017. Translated from the Russian by Russell E. Martin, Ph.D., Westminster College.
  4. ^ გურული, ვახტანგ (13 June 2022). “რუსეთი მოდიოდა თუ ერეკლეს მოჰყავდა? (ერეკლე II-ის დაბადებიდან 300 წლისთავისათვის)”. თბილისი: საქართველოს მეცნიერებათა ეროვნული აკადემია. 2025年9月7日閲覧.
  5. ^ a b Dumin, S.V., ed. (1996). Дворянские роды Российской империи. Том 3. Князья [Noble families of the Russian Empire. Volume 3: Princes] (ロシア語). Moscow: Linkominvest. p. 58.
  6. ^ ქართული საბჭოთა ენციკლოპედია, ტ. 7/ Georgian Soviet Encyclopedia, Vol. 7 (1984), იოანე მუხრანბატონი [Ioane Mukhranbatoni] (in Georgian). Tbilisi. p. 231.
  7. ^ Metreveli, Roin, ed. (2003). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis] (ジョージア語、英語). Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0.

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