ケテヴァン (エレクレ2世の娘)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/13 22:49 UTC 版)
ケテヴァン ქეთევან |
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出生 | 1764年 |
死亡 | 1840年7月5日 |
家名 | バグラティオニ家 |
父親 | エレクレ2世 |
母親 | ダレジャン・ダディアニ |
配偶者 | イオアネ |
子女 7人(詳細は「#家族」節を参照) |
ケテヴァン(グルジア語: ქეთევან、グルジア語ラテン翻字: Ketevan、1764年 – 1840年7月5日)は、カルトリ=カヘティ王国の王エレクレ2世の娘、ムフラニ公イオアネの妻。詩人。姉マリアムおよび妹テクレと同様、才能ある詩人と評され、初期ロマン主義の精神に則って詩を書いた。
生涯
ケテヴァンは1764年にカルトリ=カヘティ王エレクレ2世と王妃ダレジャン・ダディアニの娘として生まれた。ケテヴァンは1781年頃に、当時の著名な軍人・政治家であったムフラニ公イオアネと結婚した.[1]。
1801年に王国がロシア帝国に併合された後、ケテヴァンは内カルトリのゴリ近郊にある世襲の村カラレティを没収された。
1804年、ジョージアに赴任していたグルジア県司令官パーヴェル・チツィアノフ公は、追放された旧王族たちが起こしたムティウレティ蜂起を鎮圧した。チツィアノフ公は、この蜂起に関与したとしてケテヴァンに疑いをかけた。またロシアの工作員は、ペルシアからジョージアの要人宛てに送られた書簡(ファルマーン)を傍受した。その宛先には、ケテヴァンの息子コンスタンティネも含まれていた[2]。その結果、チツィアノフ公は1805年にケテヴァンを一時的に逮捕した。ケテヴァンは投獄中、「ああ、なんと言えばいいのだろう」(ჰოი, ვითარ ვსთქვა)という叙事詩を著した。この詩はロマン主義的なイメージを用いて、ジョージアの君主制の崩壊を表現している。ケテヴァンは「小さな雲がアジアの星を暗くし、幸福な宮殿を荒廃させ、美しい庭園が咲き誇るのを阻んでいる」と述べている[3]。
家族
ケテヴァンはムフラニ公イオアネと結婚し、7人の子供をもうけた[4] 。
- コンスタンティネ4世 (1782–1842) - 最後ムフラニ公。ロシア帝国陸軍中将。ホレシャン・グラミシヴィリ(1786年–1831年)と結婚。
- テイムラズ(1784年–1833年) - 最初にオルベリアニ公女(1820年没)と結婚、次にエカテリーナ・アルチョーモヴナ・アキモワ(1827年以前没)と結婚。
- グリゴル (1787年–1861年) - ロシア帝国陸軍少将。マリアム・ツェレテリ(1807年–1877年)と結婚。
- バルバレ(1790年–1843年) - クサニ公トルニケ・エリスタヴィ(1770年–1860年)と結婚。
- ダヴィト(1793年–1878年) - ソフィア・ソロモヴナ・ムハルグドゼリ=アルグタシュヴィリ公女(1834年没)と結婚。
- タマル(1798年–1851年) - ザカリ・パラヴァンディシュヴィリ公爵(1796年生)と結婚。
- イラクリ(1800年–1816年頃)
貴族名鑑『バークズ・ピアレージ』によると、ケテヴァンはアベル・アンドロニカシヴィリと再婚したという記述がある[1]。この記述は、近年のジョージア王室の系図学者からは信頼できないとされている[5]。
系譜
ダヴィト | |||||||||||||||||||
エレクレ1世 | |||||||||||||||||||
エレネ | |||||||||||||||||||
テイムラズ2世 | |||||||||||||||||||
シェルマザン・ツォロカシヴィリ | |||||||||||||||||||
アナ・ツォロカシヴィリ | |||||||||||||||||||
エレクレ2世 | |||||||||||||||||||
レヴァン・バトニシヴィリ | |||||||||||||||||||
ヴァフタング6世 | |||||||||||||||||||
トゥタ・グリエリ | |||||||||||||||||||
タマル | |||||||||||||||||||
キルツィコ | |||||||||||||||||||
ルスダン | |||||||||||||||||||
ケテヴァン | |||||||||||||||||||
ギオルギ4世ダディアニ | |||||||||||||||||||
べジャン1世ダディアニ | |||||||||||||||||||
セヴディア・ミケラゼ | |||||||||||||||||||
カツィア1世・ダディアニ | |||||||||||||||||||
タマル・ゲロヴァニ | |||||||||||||||||||
ダレジャン・ダディアニ | |||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b Montgomery, Hugh, ed. (1980). Burke's Royal Families of the World, Volume 2. London: Burke's Peerage. pp. 63, 66. ISBN 0850110297.
- ^ Kartveladze, Zurab (8 August 2012). “"დაუმორჩილებელი ქართული პოეზია" - ერეკლე მეფის ქალიშვილები” ["Indomitable Georgian poetry" — Daughters of King Heraclius] (ジョージア語). droni.ge. 2013年4月7日閲覧.
- ^ Rayfield, Donald (2000). The Literature of Georgia: A History (2nd, revised ed.). Richmond, England: Curzon Press. pp. 133–134. ISBN 0-7007-1163-5
- ^ Metreveli, Roin, ed. (2003). ბაგრატიონები. სამეცნიერო და კულტურული მემკვიდრეობა [Scientific and Cultural Heritage of the Bagrationis] (ジョージア語、英語). Tbilisi: Neostudia. p. Table 8. ISBN 99928-0-623-0.
- ^ Dumin, S.V., ed. (1996). Дворянские роды Российской империи. Том 3. Князья [Noble families of the Russian Empire. Volume 3: Princes] (ロシア語). Moscow: Linkominvest. p. 69.
参考文献
- ასათიანი ლ., ძველი საქართველოს პოეტი ქალები, თბ., 1936;
- カルトリ・ソビエト百科事典, 第10巻, 498頁, トビリシ, 1986年.
外部リンク
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