イェス (モンゴル人)とは? わかりやすく解説

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イェス (モンゴル人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/06 13:57 UTC 版)

イェスモンゴル語: Yesü、? - ?)は、大元ウルスに仕えた将軍の一人。主に元末の混乱期には紅巾の乱討伐、元末明初には明軍との戦闘で活躍した事で知られる。

元史』などの漢文史料における漢字表記は也速(yěsù)。

概要

淮河流域への出鎮

イェスの出自や来歴については記録がないが、ケシクテイ(宿衛)を経て宜政院参議に任命され、中央の高官となっている[1]1354年(至正14年)、紅巾の乱の一派である芝麻李が徐州を拠点としたため、これを討伐すべく出陣したトクトの軍団にイェスも加わった。徐州の城壁は強固でなかなか陥落しなかったため、トクトは巨石を砲弾として撃ち込む一方、イェスを別動隊として南の城壁を攻めさせた。イェスが南の外城を突破したことで遂に徐州は陥落し、賊は遁走した。この功績により、イェスは同知中政院事に任命されている。その後、太尉オチチェル率いる軍団に属して淮西方面に進み、安豊を包囲している反乱軍を攻撃しようとした。淮河を渡ろうとしたものの船がなかったため、イェスらは馬に浅瀬を探らせて渡河し、驚いた反乱軍は潰走して安豊は解放された。その後も濠州を奪取し、中央に帰還した後は院使に任命された[2]

その後、再びオチチェルとともに淮東方面に進出し、淮南行枢密院副使、ついで同知枢密院事の地位に任じられた。イェスは賊を海州で討伐したが、賊の一部は山東半島に逃れて健在であった。そこでイェスは賊が北上するであろうことを予想し、先に北方に先回りして迎え撃ち、山東地方の滕州・兗州・費県・鄒県・曲阜県・寧陽県・泗水県一帯を回復した。それからほどなく、泰安州・平陰県・肥城県・萊蕪県・新泰県も奪取して平安水寨などの寨を平定した。これらの功績によりイェスは枢密院の長官、知枢密院事に任じられた。この頃、蒲台の賊の杜黒児を討伐して京師で磔にし、東昌の賊が陵州に進出してきた時には景州でこれを破った。阜城県を回復した後には詔を受けて単家橋に駐屯し、賊が北上するのを防いだ。賊が長蘆を攻めたことを聞くとイェスは出陣し、左手を矢で射られながらも賊軍を破り、500人余りを殺して馬3000匹を奪ったという[3]

その後、中書平章政事に任命されたが、すぐに淮南行省に改められた。この頃雄州・蔚州で賊が蜂起したが、イェスによってすぐに平定された。また、知枢密院事の劉カラ・ブカが懐来・雲州を略奪して乱をなしたことが問題となると、イェスは軽騎を率いてこれを撃滅し、投降した兵たちを配下に組み込んだ[4]

遼陽地方への出鎮

1358年頃の状勢。紅巾の乱勢力(Sung=宋)は河南地方から興って遼東地方まで進出した。

次に、賊が遼東地方の大寧を陥落させたとの報が入ると、イェスは命を受けてこれを討伐すべく出陣し、侯家店に駐屯する賊軍を補足した。イェスは賊軍を破ったものの首魁は散開して逃れたため、イェスは別動隊を派遣してこれを包囲殲滅し、遂に大興を解放した。イェスは賊の首領の湯通・周成ら35人を捕らえて都市で磔とし、この功績により金紫光禄大夫・知枢密院事に任命された[5]

また、賊の雷テムルブカ・程思忠らが永平を陥落させると、イェスに討伐が命じられ、イェスはまず灤州・遷安県を奪還した。この頃、遼東地方の郡県は永平のみが兵乱の影響を受けておらず、備蓄食料等も豊富であったため、賊が改修を施した永平は堅城となっていた。そこでイェスは力攻めをせず城外に大営を築き、周辺の要塞を先に平定する策に出た。昌黎・撫寧の2県を陥落させた際には首魁の一人を捕虜とすることに成功し、雷テムルブカは京師に送られた。追い詰められた永平の賊は遂に参政のチェリク・テムルに投降を申し出、朝廷の判断により賊は許されイェスは包囲を解いて帰還することになった。しかし、イェスは賊が再び蜂起することを予想して警戒を厳重にするように命じており、果たして程思忠は城を棄てて瑞州に逃れたが、すぐに発見されて捕獲・処刑されたという。これによって賊は更に東方に逃れ、詔を受けてイェスは中央に戻った[6]

その後、遼陽行省左丞相・兼知行枢密院事に昇進となり、引き続き永平を拠点として兵を統べた。金州・復州・海州・蓋州・乾州では賊が蜂起し、海路より永平を攻め落とさんと窺っていたが、イェスがいることを知ると断念したという。イェスに進撃を阻まれた賊は矛先を転じて大寧に向かい、守将の王聚は敗れて軍団は西方に敗走した。イェスは賊軍が上都を窺うのを憂慮し、配下の右丞忽林台を上都の援護に派遣した。果たして賊軍は上都に攻め入ったものの、後方から至った忽林台の軍団が軍を打ち破ることに成功した。これによってはじめて永平・大寧一帯は安定し、感謝した民は勲徳を称える石碑を立てたという[7]

ボロト・テムルとの対立

元末明初の諸勢力。ボロト・テムルの勢力圏は地図上部にBolad temurとして示されている。

1364年(至正24年)、山西で軍閥を率いるボロト・テムルは右丞相チョスゲン・宦官朴ブカと対立し、兵を挙げて両者を捕らえるクーデターを起こし、これに伴いイェスも中書左丞相に任じられた。同年7月にボロト・テムルは兵を一部大同に残して自らも京師に向かい、ボロト・テムルと政治的に対立していた皇太子アユルシリダラは首都を出て清河で兵を統べた。イェスはアユルシリダラより昌平でボロト・テムルを撃退するよう命じられたものの、もとよりモンゴル人同士の内戦に士気はなく、戦わずして潰走した。イェスの敗走によってアユルシリダラは太原に逃れ、ウカアト・カアンと首都圏を掌握したボロト・テムルは中書右丞相を称した[8]

1365年(至正25年)、太原に逃れた皇太子はココ・テムルと組み、甘粛・嶺北・遼陽・陝西各省の王侯の兵を糾合してボロト・テムルに反転攻勢をかけた。ボロト・テムルは配下の御史大夫トゲン・テムルに皇太子に味方する上都及びモンゴル高原の兵を北方で、またイェスにはココ・テムル配下の竹貞・貊高らを南方で防ぐようそれぞれ命じた。イェスは良郷に至った所で配下に今後の方針について諮り、ボロト・テムルは狂悖にして国家を危うくしていると結論付け、イェスは根拠地である永平に帰還することを決めた[9]

永平に戻ったイェスは西方のココ・テムルや東方の国王エセン・ブカと結び、四方を敵に囲まれたボロト・テムルは配下の同知枢密院事姚バヤン・ブカをイェス討伐のため派遣した。姚バヤン・ブカ軍は通州を過ぎた所で白河が氾濫したために進軍できなくなり、保塁を築いてイェスを待ち構えた。しかし姚バヤン・ブカはイェスを無謀な人物と軽んじており、姚バヤン・ブカが不用心であることを見て取ったイェスは敵軍を急襲し、大勝利を得て姚バヤン・ブカを捕虜とした。 ボロト・テムルは自軍が壊滅することを恐れ、自ら軍を率いてイェスを討伐せんと出陣したが、同じく通州に至ったところで大雨が続き結局は戦わずして帰還した。保安と姚バヤン・ブカがボロト・テムル配下の有力将軍であったが、保安はボロト・テムルに不服従であったことを理由に処刑され、また姚バヤン・ブカがイェスに敗れたことでボロト・テムルは信頼のおける部下を失い、遂に没落するに至った[10]

元明交替

1365年頃の状勢。朱元璋はボロト・テムル一派と皇太子一派が内戦を繰り広げていた頃に勢力を拡大し、1367年に張士誠(Wu=呉国)を滅ぼして江南を統一した。

モンゴル人どうしが内戦を繰り広げる一方、南方では応天府(現在の南京)に拠る朱元璋が江南一帯を統一しつつあり、1364年(至正24年)には呉王を称するに至った。一方、イェスは1366年(至正26年)4月6日(丁巳)に徐州を回復している[11]

1367年(至正27年)、イェスは中書右丞相に任じられた上で山東方面に派遣されたが、1368年(至正28年/洪武元年)正月には皇帝に即位した朱元璋が大軍団を大都に向けて派遣した。同年2月25日(丙寅)、明軍と衝突したイェス軍は大敗を喫し、80里に渡って追撃を受けた上、配下の枢密院判トゴン及び軍士数百人が捕虜となった[12]

山東地方から撤退したイェスは配下のカラジャン・田勝・周達らとともに莫州で最期の防衛戦を築いたが、明軍の総大将徐達は直沽で海舟七艘を手に入れるとこれで浮き橋を作り、また副将の常遇春は別働隊を築いて水路より進軍した[13]。水陸双方から攻め立てられたイェスは明軍の侵攻を支えきれず、7月23日には敗走してしまった[14]。イェスの敗走によって檀州・順州・会州・利州・大興は次々と明軍に投降し、遂に明軍はウカアト・カアンの拠る大都を射程に収めた[15]

7月28日に開かれた御前会議で、ウカアト・カアンは「イェスは既に敗れ、ココ・テムルは遠く太原にあり、どこに援兵を待てばよいのか?」と述べており、イェスの敗北が決定打となってウカアト・カアンは大都の放棄を決意するに至った[16][17]。中国史上ではウカアト・カアンの大都放棄を以て「元朝の滅亡」とするが、この時点では大元ウルス朝廷はなお健在であり、引き続きモンゴル・明朝の戦闘が繰り広げられた[18]

北元時代

ウカアト・カアンが大都を放棄した翌日の7月29日にイェスは本部の兵を率いてウカアト・カアンの下に赴き[19]、8月5日に皇帝の下に至ったイェスは大都が失陥したことを報告した[20]。同月7日、イェスは改めて中書左丞相に任じられ[18][21]、イェスが15日に上都に滞在するウカアト・カアンに献上した幣二万匹・糧五千石は皇帝一行が自存する大きな助けとなった[22]。11月1日には梁王・太保の地位を与えられている[23]。この頃、イェスは紅羅山に駐屯していたが、紅羅山は上都の東南、すなわち明軍によって陥落した大都と上都の間にあり、紅羅山のイェスは上都にいるウカアト・カアンにとって「藩籬」であった[18][24]

1369年(至正29年/洪武2年)に入るとモンゴル朝廷は反転攻勢を計画し、イェスは1月21日に命を受けて全寧州に駐屯した[18][25]。2月15日、4万の軍団を率いたイェスは通州を攻めたが、守将の曹良臣は千人に満たない寡兵ながらこれをよく防ぎ、また赤幟と鉦鼓を持たせた別働隊を出すことで援軍が来たように見せかけたため、イェスは撤退した[26][27]。通州の奪取にこそ失敗したものの、明軍に反撃に出たことが評価されてイェスは龍衣・御酒を下賜された[18][28]

同年4月1日、イェスは再びコンコ・テムルとともに大都奪還のため派遣されたが[29]、明軍の側でも早くからイェスの動向を掴んでおり[30]、同月6日にイェスは灤州で敗北を喫した[31][32]

敗退したイェスは全寧に駐屯していたが、今度は常遇春率いる明軍10万が北上を始め、同年6月5日に敗北したイェスは大帽山まで退却した[33]。この敗報は2日後の6月7日にウカアト・カアンの下に届けられ、ウカアト・カアンは上都をも放棄して応昌に逃れることを決めている[34]。一方、常遇春率いる明軍は大興州でも勝利を収め、遂に6月17日には上都を占領するに至った[33][35]。イェスは同年9月25日に紅羅山に退却した後[36]、12月12日には威定王に報ぜられている[37]

11月16日、洪武帝はもと元の平章であった長寿らをイェスの下に派遣し、以下のように呼びかけた[33][38]

将軍(イェス)は元の古い家系の出であり、父子ともに王室につとめて何年も経つ。このような者は天下に多いが、それ故に諸将で兵を恣にする類いの人物が跋扈し、往々にしてその最期は良からざるものである。ただ将軍のみは臣下としての節を守り、その意思の堅さは金石のようである。危急存亡の際に当たって力を奮い、己一人で尽くす忠義の志によって宗社を安んじ、元主(ウカアト・カアン)が遠く沙漠に去るに及んでも、将軍は一人孤軍で以て殿をこなし義気は衰えていない。(一方で)その他僥倖によってついてきた者どもが逃散しているのはまことに嘆かわしいことである。古の将帥は国が乱れ滅ぶ時に当たって、名分を偽り私欲に傾くようなことはなかった。朕は将軍の節を守る様を嘉するものである。近頃聞くところによると、塞外において逃れ去った者どもがまた害をなし、我が国の辺土を乱しているという。将軍は配下の士卒を集めてこれをやめさせられないのか。今、我が軍は既に幽薊地方に集結しており、隙を待って動くであろう。将軍は深くこの情勢を思い、上は君主の祭祀を存続させ、下は民草の保全につとめるべきである。
原文:将軍元之故家、父子出将入相、宣力王室、積有年矣。比者、天下多故、諸将擅兵、類多跋扈、往往不善其終。独将軍恪守臣節、堅如金石、雖当顛沛之際、力奮孤忠、志安宗社。及元主遠去沙漠、将軍独能以孤軍殿後、義気不衰。其餘僥倖之徒、倶雲逝鳥散。嗟哉、且古之将帥、当乱亡之時、未嘗不假名義以行其私。朕於将軍之節、甚有嘉焉。近聞塞外逋逃之衆、猶逞蜂蠆之餘毒、擾我辺陲。豈将軍不能輯士卒而致然歟。今我軍已集幽薊、待釁而動。将軍宜深思之、上以図存其君之宗祀、下以保全其民人、豈不識時之俊傑哉 — 洪武帝、『明太祖実録』洪武二年十一月丁未条[39]

この洪武帝からイェスに宛てた書簡は、イェスを明朝に降らせるためのものであるとはいえ、この頃のイェスの置かれた状況、評価をよく物語るものである[33]

1370年(至正30年/洪武3年)のウカアト・カアンの没後、イェスも間もなく没したと見られるが、その晩年については記録がない[33]

脚注

  1. ^ 欒2019,216頁
  2. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「也速、蒙古人。倜儻有能名。由宿衛歴尚乗寺提点、遷宣政院参議。至正十四年、河南賊芝麻李拠徐州、也速従太師脱脱南征、徐州城堅不可猝抜。脱脱用也速計、以巨石為礮、晝夜攻之不息、賊困莫能支。也速又攻破其南関外城、賊遂遁走。以功除同知中政院事。継又領軍従父太尉月闊察児征淮西、会賊囲安豊、即往援之、渡淮無舟、因策馬探水深浅、浮而過、賊大駭、撤囲去。進攻濠州、有詔班師乃還。陞将作院使」
  3. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「復従太尉征淮東、取盱眙。遷淮南行枢密院副使、陞同知枢密院事。討賊海州、大敗之。賊走、航海襲山東、尽有其地。也速計賊必乗勝北侵、急引兵北還、表裏撃之、復滕・兗二州、及費・鄒・曲阜・寧陽・泗水五県、賊勢遂衄。未幾、復泰安州及平陰・肥城・萊蕪・新泰四県、又平安水等五十三寨。陞知枢密院事。討蒲台賊杜黒児、擒送京師磔之。東昌賊将北寇、道出陵州、也速邀撃於景州、斬獲殆尽。復阜城県。有詔命也速以軍屯単家橋、断賊北路。賊転攻長蘆、也速往与戦、流矢貫左手不顧、転闘無前、殺賊五百餘人、奪馬三千匹。於是分兵下山寨、民争来帰」
  4. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「拝中書平章政事、改行省淮南。雄州・蔚州賊継起、也速悉平之。知枢密院事劉哈剌不花所部卒掠懐来・雲州、欲為乱、也速以軽騎撃滅其首禍者、降其衆隷麾下」
  5. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「賊陥大寧、詔也速往討之。賊兵次侯家店、也速遇賊即前与戦、自昏抵曙、散而復合。也速遣別騎繞出賊後、賊腹背受敵大敗。遂抜大寧、擒首賊湯通・周成等三十五人、磔于都市。召入覲、賞賚優渥、進階金紫光禄大夫・知枢密院事」
  6. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「既而賊雷帖木児不花・程思忠等陥永平、詔也速出師、遂復灤州及遷安県。時遼東郡県惟永平不被兵、儲粟十万、芻藁山積、居民殷富。賊乗間窃入、増土築城、因河為塹、堅守不可下。也速乃外築大営、絶其樵採、数与賊戦、獲其偽帥二百餘人、平山寨数十。又復昌黎・撫寧二県、擒雷帖木児不花送京師。賊急、乃乞降于参政徹力帖木児、為請命于朝、詔許之、命也速退師。也速度賊必以計怠我師、乃厳備以偵之。程思忠果棄城遁去、亟追至瑞州、殺獲万計。賊遂東走金・復州。詔還京師」
  7. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「拝遼陽行省左丞相、知行枢密院事、撫安迤東兵農、委以便宜、開省于永平、総兵如故。金・復・海・蓋・乾等賊並起、西侵興中州、陰由海道趨永平、聞也速開省乃止。也速亟分兵防其衝突。賊乃転攻大寧、為守将王聚所敗、斬其渠魁、衆潰、皆西走。也速慮賊窺上都、即調右丞忽林台提兵護上都、簡精鋭自躡賊後。賊果寇上都、忽林台撃破之、賊衆又大潰。永平・大寧於是始平。乃分命官属、労来安輯其民、使什伍相保以事耕種、民為立石頌其勲徳」
  8. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「二十四年、孛羅帖木児与右丞相搠思監・宦者朴不花有怨、遣兵犯闕、執二人以去、而也速遂拝中書左丞相。七月、孛羅帖木児留兵守大同、自率兵復向闕。京師大震、百官従帝城守、皇太子統兵迎於清河、命也速軍於昌平。而孛羅帖木児前鋒已度居庸関、至昌平、也速一軍皆無闘志、不戦而潰、皇太子馳入城、尋出奔于太原。孛羅帖木児遂入京城、為中書右丞相、語具孛羅帖木児伝」
  9. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「二十五年、皇太子在太原、与拡廓帖木児謀清内難、承制調甘粛・嶺北・遼陽・陝西諸省諸王兵入討孛羅帖木児。孛羅帖木児乃遣御史大夫禿堅帖木児率兵攻上都附皇太子者、且以禦嶺北之兵、又調也速率兵南禦拡廓帖木児部将竹貞・貊高等。也速軍次良郷不進、謀之於衆、皆以謂孛羅帖木児所行狂悖、図危宗社、中外同憤」
  10. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「遂勒兵帰永平、西連太原拡廓帖木児、東連遼陽也先不花国王、軍声大振。孛羅帖木児患之、遣其将同知枢密院事姚伯顔不花以兵往討。軍過通州、白河水溢不能進、駐虹橋、築塁以待。姚伯顔不花素軽也速無謀、不設備。也速覘知之、襲破其軍、擒姚伯顔不花。孛羅帖木児大恐、自将討也速、至通州、大雨三日、乃還。孛羅帖木児先以部将保安不附己、殺之、至是又失姚伯顔不花、二人皆驍将也、如失左右手、鬱鬱不楽。事敗、遂伏誅」
  11. ^ 『明太祖実録』丙午年四月丁巳(六日),「時徐州芝麻李兵起拠州城、因命宣為招討使、率丁夫従総兵、知枢密院也速復徐州」
  12. ^ 『明太祖実録』洪武元年二月二十五日(丙寅),「朱右丞而還既而有報。元丞相也速・平章忽林台等軍至、達率兵出戦、元兵敗走、追奔八十餘里、殺傷甚衆、生擒枢密院判脱懽並軍士数百人、獲馬三百匹」
  13. ^ 『明太祖実録』洪武元年閏七月二十三日(辛酉),「大将軍徐達等師至直沽、獲其海舟七艘、作浮橋以済師。達又令副将軍常遇春・都督同知張興祖各率舟師、並河東西以進、令歩騎尊陸而前。元丞相也速等捍禦海口、望風奔遁、元都大震」
  14. ^ 『元史』巻142列伝29也速伝,「二十七年、詔以也速為中書右丞相、分省山東。二十八年、大明兵取山東。閏七月、也速与部将哈剌章・田勝・周達等禦于莫州、衆敗潰、乃尽掠莫州残民北遁」
  15. ^ 『庚申外史』巻下,「戊申、至正二十八年。……先是、七月二十一日、大軍自通州進兵克永平、也速軍潰、于是檀・順・会・利・大興等等、以次皆降附焉」
  16. ^ 曹2012,7頁
  17. ^ 『北巡私記』,「至正二十八年閏七月二十八日、恵宗皇帝御清寧殿、召見群臣、諭以巡幸上都。皆屏息無一言、独知枢密院事哈喇章公力言不可、大意謂賊已陥通州、若車駕一出都城、立不可保、金宣宗南奔之事可為殷鑒、請死守以待援兵。上曰『也速已敗、拡廓帖木児遠在太原、何援兵之可待也』。遂退朝」
  18. ^ a b c d e 欒2019,217頁
  19. ^ 『北巡私記』,「二十九日、車駕至居庸関。時経紅賊之乱、道路蕭條、関無一兵。車駕至、亦無供張。帝太息曰『朕不出京師、安知外事如此』。是日、詔也速率本部兵趨行在」
  20. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年八月]初五日、也速奏京師失守、淮王及丞相慶童死事。参知政事張守礼自京師奔行在」
  21. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年八月]初七日、左丞相失烈門卒、以遼陽行省左丞相也速不花為中書左丞相、以納哈出為遼陽行省左丞相」
  22. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年八月]十五日、車駕至上都。上都経紅賊焚掠、公私掃地、宮殿官署皆焚毀、民居閒有存者。遼陽行省左丞相也速公献幣二万匹・糧五千石至、始有自存之勢矣」
  23. ^ 『北巡私記』,「[至正二十八年]十一月初一日、封也速為梁王、加太保」
  24. ^ 『庚申外史』巻下,「[至正二十八年]九月、平遼陽、独上都与紅羅山未平。庚申帝在上都、紅羅山在東南、也速駐兵在焉。上都恃有紅羅山為之藩籬、紅羅山恃上都為救援而不設備。常遇春使人覘之、即以大兵鋭騎銜枚、具十日糧、晝夜兼行、六月二十八日即破紅羅山、七月二十七日破上都城」
  25. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年正月]二十一日、詔也速丞相屯全寧州。拝拡廓帖木児中書右丞相、欲以内事委之也。拡廓公遣使至行在、始知西北消息。高麗国遣使貢歳幣如旧例、且訴納哈出搆兵之事、上優詔答之。佶奏高麗心懐両端、不可恃為外援。疏入、不報」
  26. ^ 曹2012,4頁
  27. ^ 『明太祖実録』洪武二年二月庚辰(十五日),「故元丞相也速侵通州。時大軍征山西、北平守兵単寡、通州城中亦不満千人。也速将万餘騎営于白河。守将平章曹良臣曰『吾兵少、不可以戦』。彼衆雖多、然亡国之後屡挫之兵可以計破。乃密遣指揮仵勇等於沿河、舟中各樹赤幟三、亘十餘里、鉦鼓之声相聞。也速望之驚駭、遂引兵遁去。城中出精騎渡白河追之、至薊州、不及而還」
  28. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年二月]十五日、也速丞相率精騎四万抵通州、賊固守不下。詔也速公勿深入、恐賊乗虚内犯。未幾、遣左司郎中黄卓至軍中、賜也速公龍衣・御酒、将士賞賚有差」
  29. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年]夏四月一日、詔晃火帖木児・也速分道討賊、恢復京師」
  30. ^ 『明太祖実録』洪武二年四月丙寅(二日),「先是、元将也速以兵寇通州、至白河遁去。至是、有報胡兵復欲入寇、故遣使馳報遇春等、令率所部兵還北平、取迤北餘寇」
  31. ^ 欒2019,217-218頁
  32. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年夏四月]初六日、也速丞相敗績于灤州」
  33. ^ a b c d e 欒2019,218頁
  34. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年]六月初五日、也速丞相与賊兵戦於全寧、賊首為常遇春、驍健有名、率步騎十万入寇。也速公戦不利、退至大帽山。初七日、敗書聞、上急召群臣議幸和林」
  35. ^ 『明太祖実録』洪武二年六月己卯(十七日)「常遇春等克開平。……次全寧、故元丞相也速復以兵迎戦、又敗之、也速遁去。進攻大興州、文忠謂遇春曰『元兵必走。乃分兵千餘人為八屯、伏其帰路』。虜果夜遁、遇伏、大破之、擒其丞相脱火赤。遂率兵道新開嶺、進攻開平。元主先已北奔、追北数百里、俘其宗王慶生及平章鼎住等、斬之。凡得将士万人、車万輌、馬三千疋、牛五万頭、薊北悉平」
  36. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年九月]二十五日、也速丞相退保紅羅山」
  37. ^ 『北巡私記』,「[至正二十九年]十二月十二日、帝始視朝。十四日、封也速丞相為威定王」
  38. ^ 『明太祖実録』洪武二年十一月丁未(十六日),「遣故元平章長寿等以書諭元丞相也速曰。将軍元之故家、父子出将入相、宣力王室、積有年矣。比者、天下多故、諸将擅兵、類多跋扈、往往不善其終。独将軍恪守臣節、堅如金石、雖当顛沛之際、力奮孤忠、志安宗社。及元主遠去沙漠、将軍独能以孤軍殿後、義気不衰。其餘僥倖之徒、倶雲逝鳥散。嗟哉、且古之将帥、当乱亡之時、未嘗不假名義以行其私。朕於将軍之節、甚有嘉焉。近聞塞外逋逃之衆、猶逞蜂蠆之餘毒、擾我辺陲。豈将軍不能輯士卒而致然歟。今我軍已集幽薊、待釁而動。将軍宜深思之、上以図存其君之宗祀、下以保全其民人、豈不識時之俊傑哉。茲遣長寿篤馬二平章、齎書往達朕意将軍其審之」
  39. ^ 原文は欒2019,218頁より引用

参考文献

  • 欒凡『北元史』中国社会科学出版社、2019年
  • 曹永年「『北巡私記』所見之北元政局」『明代蒙古史叢考』上海古籍出版社、2012年
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』3巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1971年6月)
  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID: 000002623928 
  • 元史』巻142列伝29也速伝
  • 新元史』巻215列伝第112也速伝



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