アーデルグンデ・フォン・バイエルン_(1823-1914)とは? わかりやすく解説

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アーデルグンデ・フォン・バイエルン (1823-1914)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 06:11 UTC 版)

アデルゴンダ・ディ・バヴィエーラ
Adelgonda di Baviera
モデナ公妃
在位 1846年1月21日 - 1859年6月11日
別称号 バイエルン王女

全名 アーデルグンデ・アウグステ・シャルロッテ・カロリーネ・エリーザベト・アマーリエ・マリー・ゾフィー・ルイーゼ
出生 (1823-03-19) 1823年3月19日
バイエルン王国ヴュルツブルク
死去 (1914-10-28) 1914年10月28日(91歳没)
ドイツ帝国
バイエルン王国ミュンヘン
埋葬 オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンカプツィーナー納骨堂
結婚 1842年3月30日 ミュンヘン
配偶者 モデナ公フランチェスコ5世
子女 アンナ・ベアトリーチェ
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 バイエルン王ルートヴィヒ1世
母親 テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン
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アーデルグンデ・フォン・バイエルンドイツ語Adelgunde von Bayern, 1823年3月19日 - 1914年10月28日)は、バイエルン王国の王族。全名はアーデルグンデ・アウグステ・シャルロッテ・カロリーネ・エリーザベト・アマーリエ・マリー・ゾフィー・ルイーゼAdelgunde Auguste Charlotte Caroline Elisabeth Amalie Marie Sophie Luise)。バイエルン王ルートヴィヒ1世の三女で、モデナ公フランチェスコ5世の妃となった。イタリア語名はアデルゴンダ・ディ・バヴィエーラ(Adelgonda di Baviera)。

生涯

1823年3月19日、ルートヴィヒ1世(当時王太子)とその妃であったザクセン=ヒルトブルクハウゼンフリードリヒの娘テレーゼの間に第6子としてヴュルツブルクで生まれた。

1842年3月30日ミュンヘンでモデナ公子フランチェスコ(オーストリア=エステ大公フランツ)と結婚し、1846年に夫が即位したことによりモデナ公妃となった。1859年イタリア統一を目指すサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世によってモデナ公国が併合されるとフランチェスコ5世とともにウィーンへ亡命し、フランチェスコ5世の歿後はミュンヘンに戻った。

1914年10月28日ミュンヘンで死去した。遺骨はウィーンのカプツィーナー教会にある皇帝納骨所カイザーグルフト)に収められている。

子女

夫であるフランチェスコ5世との間には以下の一女をもうけた。

  • アンナ・ベアトリーチェ・テレジア・マリア (1848年 - 1849年)



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