アレクサンドル・オドエフスキー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/19 08:11 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動アレクサンドル・オドエフスキー(Александр Иванович Одоевский、1802年12月8日-1839年8月27日)ロシアの貴族(公爵)、詩人。デカブリスト党員。
生涯
チェルニーヒウ公国に起源を持つ古いロシア貴族の家系に生まれる。家庭で教育を受け、アレクサンドル・グリボエードフ、アレクサンドル・ベストゥージェフ、コンドラチイ・ルイレーエフなどの文学者たちと交流し、一致して当時の感傷的でメランコリックな思潮に反対していた。1824年から近衛騎兵連隊に勤務しているうちにルイレーエフやベストゥージェフに誘われて士官の結社に加入し、1825年12月の反乱(デカブリストの乱)に積極的に関与したという罪で逮捕され、位階勲等を剥奪され、シベリアの鉱山に12年の徒刑を命ぜられた。1837年まで刑期をつとめた後にニジニー・ノヴゴロド竜騎兵連隊の一兵卒としてコーカサスに派遣され、そこでレールモントフやニコライ・プラトノヴィッチ・オガリョフと知り合う。マラリア熱により任地で死去。
本格的な詩作はペトロパブロフスク要塞に投獄中に始め、プーシキンが流刑中のデカブリストたちに捧げた「シベリアへ送る詩」に答えて1827年に書かれた「プーシキンに答える Ответ на послание Пушкина」が最も有名である。コーカサスで友人になったレールモントフがオドエフスキーの死を悼んで作った詩が「A・I・オドエフスキーの想い出 Памяти А. И. Одоевского」である。
作品
叙情詩
- 「プスコフの使者 Послы Пскова」
- 「チタからペトロフスキー鉱山への護送の途上で Стихи на переход наш из Читы в Петровский завод」(1830年)
- 「スラヴの娘たち Славянские девы」(1830年)
叙事詩
- 「ヴァシリコ Василько」(1829-1830年)
参考文献
- アレクサンドル・オドエフスキーのページへのリンク