アリストデモス_(メッセニア王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アリストデモス_(メッセニア王)の意味・解説 

アリストデモス (メッセニア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/10 09:40 UTC 版)

アリストデモス(希:Ἀριστόδημος、ラテン文字転記:Aristodemos、在位:紀元前744年-紀元前736年もしくは紀元前724年-紀元前716年)はメッセニアの最後の王である。

先代の王エウパエスの時代よりメッセニアはスパルタ戦争をしていた(第一次メッセニア戦争)。戦争の最中、処女を生贄に捧げよという神託が下り、王族の出のアリストデモスは自らの娘を供犠に差し出した[1]

その5年後、エウパエスが戦死した[2]。彼には子がいなかったために民衆が王を選出することになり、アリストデモスが王に選出された[3]。アリストデモスは先王より戦いを引き継ぎ、代位5年目にあたる紀元前724年イトメ山の戦いでスパルタ軍を大いに破った[4]。この戦いの後、スパルタはトロイの木馬戦術を真似て100人の男を逃亡者という触れ込みでメッセニア人が立て篭っていたイトメへと送ったが、アリストデモスは「ラケダイモンが働いた悪事は、こと新しいが、その術策は古い」と言って敵の策を看破した[5]

しかし、アリストデモスの奮戦虚しく戦況は悪化の一途を辿った。彼は娘の亡霊を夢に見たり、多くの不吉な予兆によって絶望し、さらに娘殺しが勝利を導かなかったことを思い、7年の在位の後に娘の墓前で自殺した[6]。「王は、人間の思慮が及ぶかぎりでメッセニアを救ったが、運命は王の働きをも企図をも、何ひとつ成就させなかった」[7]。彼の死から5年目にイトメが落ち、メッセニアは征服され、メッセニア人はスパルタ人によってヘロットの身に落とされた。

  1. ^ パウサニアス, IV. 9. 6-9
  2. ^ ibid, IV. 10. 1-4
  3. ^ ibid, IV. 10. 5
  4. ^ ibid, IV. 11. 1-8
  5. ^ ibid, IV. 12. 2
  6. ^ ibid, IV. 13. 2-4
  7. ^ ibid, IV. 13. 4

参考文献

  • パウサニアス著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、龍渓書舎、1991年
先代:
エウパエス
メッセニア王
紀元前744年-紀元前736年もしくは紀元前724年-紀元前716年
次代:
-



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アリストデモス_(メッセニア王)」の関連用語

アリストデモス_(メッセニア王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アリストデモス_(メッセニア王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアリストデモス (メッセニア王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS