1953年のロードレース世界選手権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/30 09:54 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動1953年の FIMロードレース世界選手権 |
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前年: | 1952 | 翌年: | 1954 |
シーズン概要
前年に休止となったフランスGPが開催地をルーアンに移して復活し、1953年シーズンは全9戦で争われることになった[1]。しかしドイツGPが開催されたショッテンリンクの安全性に対して大排気量クラスのファクトリーライダーたちが抗議し、その結果350ccクラスと500ccクラスのレースは世界選手権のポイント対象外の国際レースに降格となった。従って、この年は世界選手権の公式記録としては9ラウンド全てでレースが行われたクラスは存在しない[2]。
ノートンで3個のタイトルを獲得したジェフ・デュークは、前年のシーズン終了と同時にジレラ・ファクトリーへの移籍を発表した。これはノートンがデュークの意に反して4気筒エンジンの開発を中止してしまった事が原因だと言われている[3]。すでにイギリスの国民的英雄となっていたデュークのイタリアのメーカーへの移籍は物議を醸し、イギリスのファンやメディアの中にはデュークを裏切り者扱いするものも多かった[4]。
前年250ccクラスのタイトルを獲得したイタリアのモト・グッツィは350ccクラスにも進出し、さらにシーズン終盤には500ccクラスにも参戦した。この500ccはシャフトドライブと機械式の燃料噴射装置という新機軸を採用した全く新しい4気筒エンジンのマシンだった。一方で前年世界選手権に復帰したばかりのドイツのNSUは125ccクラスと250ccクラスに全力を傾け、小排気量クラスの主役の座をイタリアのメーカーから奪い取った[5]。
NSUやDKWから1年遅れて戦前のレースで活躍したBMWがグランプリに参戦を開始した。この年はポイントを獲得することはできなかったが、BMWがイタリアでデビューさせた流線型のボディを持ったストリームライナーは、後に大流行するダストビン・フェアリングと呼ばれるマシン全体を覆うフェアリングを生み出すきっかけとなった[4]。
開幕戦のマン島では500ccクラス初代チャンピオンのレスリー・グラハムが事故死した。22人存在する500ccクラスチャンピオンの中で、レース中のアクシデントによって死亡したのはグラハムだけである[6]。また同じレースの250ccクラスでは、小排気量クラスで3度のタイトルを獲ったブルーノ・ルフォがクラッシュによって大怪我を負い、引退を余儀なくされた[2]。
500ccクラス
ジェフ・デュークのジレラへの移籍は結果的には正しい選択であったことが証明された。ジレラのマシンはデュークの手によってフレームやエンジンの搭載位置、サスペンションなどにノートンの技法を取り入れ、ランキングの上位3人までをジレラのライダーが独占したのである[7]。中でもデューク自身の速さは飛び抜けており、他に2勝以上を挙げたライダーがいない中で7戦中(この年までジレラファクトリーは伝統的にマン島には出場していない)4勝を挙げてタイトルを獲得した[8]。
ノートンはレイ・アムとケン・カバナによってマン島TTとアルスターGPという伝統ある二つのレースで勝利したが、ジレラから流れを取り戻すことはできなかった。アルスターでのカバナの1勝は、500ccクラスで初めてのオーストラリア人による勝利である[2]。
開幕戦でレスリー・グラハムを失ったMVアグスタはそれ以降開発を進めることができず、カルロ・バンディローラによって最終戦で2位に入るのが精一杯であった。その一方でもうひとつのイタリアンメーカーであるモト・グッツィは、ファーガス・アンダーソンの手で最終戦スペインGPに勝利した。この時のアンダーソンは44歳237日で、これは最高峰クラスで優勝したライダーの最年長記録(2010年現在)である[2]。
350ccクラス
500ccクラスと同様にこのクラスもノートンの単気筒マシンによる支配が終わりを迎えた。モト・グッツィは250ccをベースにした350ccのマシンを開発して前年250ccクラスランキング1位と2位のエンリコ・ロレンツェッティとファーガス・アンダーソンを走らせ、ロレンツェッティが第2戦のオランダで早くも350ccクラス初優勝を挙げた。これはこのクラスにおけるイギリス製以外のマシンの初優勝であり、ロレンツェッティはこのクラスで初めてのイタリア人勝者となった[2]。しかし続くベルギーではアンダーソンが勝利を飾るとそのままの勢いでシーズン3勝を挙げ、ロレンツェッティを抑えて自身初めてのタイトルを獲得した[9]。
250ccクラス
前年に引き続いてエンリコ・ロレンツェッティとファーガス・アンダーソンを擁してシーズンに臨んだモト・グッツィだったが、NSUが投入したマシンはモト・グッツィより2000rpm以上も回る2気筒エンジンを持っていた[5]。このマシンを駆るヴェルナー・ハースとレグ・アームストロングがそれぞれ2勝ずつ挙げてタイトル争いを繰り広げ、2位入賞が3回あったハースがタイトルを獲得した[10]。ハースは125ccクラスとのダブルタイトルだった。
125ccクラス
開幕戦のマン島ではMVアグスタのレスリー・グラハムがグランプリの125ccクラスでは唯一の、そして生涯で最後の勝利を記録した。グラハムは、この数日後の500ccクラス決勝で命を落とすことになる[2]。
第2戦のオランダでは250ccクラスで優勝したNSUのヴェルナー・ハースがこのクラスでも優勝。ハースはアルスターGPでも優勝するとイタリアで3勝目を挙げ、セシル・サンドフォードやカルロ・ウビアリといった元チャンピオンたちを抑えてドイツ人初の世界タイトルを獲得した[11]。
グランプリ
Rd. | 決勝日 | GP | サーキット | 125ccクラス優勝 | 250ccクラス優勝 | 350ccクラス優勝 | 500ccクラス優勝 | レポート |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 6月12日 | マン島TT | スネーフェル | L.グラハム | F.アンダーソン | R.アム | R.アム | 詳細 |
2 | 6月27日 | ダッチTT | アッセン | W.ハース | W.ハース | E.ロレンツェッティ | G.デューク | 詳細 |
3 | 7月5日 | ベルギーGP | スパ | No Race | No Race | F.アンダーソン | A.ミラーニ | 詳細 |
4 | 7月19日 | ドイツGP | ショッテンリンク | C.ウビアリ | W.ハース | C.バンディローラ (※) | W.ツェレン (※) | 詳細 |
5 | 8月2日 | フランスGP | ルーアン | No Race | No Race | F.アンダーソン | G.デューク | 詳細 |
6 | 8月15日 | アルスターGP | ダンドロッド | W.ハース | R.アームストロング | K.マドフォード | K.カバナ | 詳細 |
7 | 8月23日 | スイスGP | ブレムガルテン | No Race | R.アームストロング | F.アンダーソン | G.デューク | 詳細 |
8 | 9月6日 | イタリアGP | モンツァ | W.ハース | E.ロレンツェッティ | E.ロレンツェッティ | G.デューク | 詳細 |
9 | 10月5日 | スペインGP | モンジュイック | A.コペタ | E.ロレンツェッティ | No Race | F.アンダーソン | 詳細 |
(※) ドイツGPの350・500ccクラスはポイント対象外
- ^ FRENCH GRAND PRIX 1953 - The Official MotoGP Website
- ^ a b c d e f 『二輪グランプリ60年史』(p.27)
- ^ 『The 500cc World Champion』(p.33)
- ^ a b 『二輪グランプリ60年史』(p.29)
- ^ a b 『二輪グランプリ60年史』(p.26)
- ^ 『The 500cc World Champion』(p.22)
- ^ 『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(p.30)
- ^ 1953 500cc World Standing - The Official MotoGP Website
- ^ 1953 350cc World Standing - The Official MotoGP Website
- ^ 1953 250cc World Standing - The Official MotoGP Website
- ^ 1953 125cc World Standing - The Official MotoGP Website
- 1 1953年のロードレース世界選手権とは
- 2 1953年のロードレース世界選手権の概要
- 3 最終成績
- 4 参考文献
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