高松市の再開発 土地区画整理事業

高松市の再開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 03:29 UTC 版)

土地区画整理事業

高松市内の土地区画整理事業一覧[2]
名称 事業
主体
面積 減歩率 公共用地率 施行年度 総事業費 換地処分公告 計画決定年月日告示番号
公共 合算 施行前 施行後 当初 最終
西部 組合 25.9ha -% 19.93% -% -% 1930年-1935年 6万円 1935年11月14日 - -
宮脇町 組合 12.7ha 4.92% 16.83% 5.17% 15.85% 1934年-1941年 3万円 1939年6月13日
1940年9月27日
- -
戦災復興 市長 358.2ha 14.41% 14.57% 13.26% 28.96% 1946年-1976年 6億4430万円 1958年7月10日
1964年1月25日
1970年5月19日
1946年6月5日戦災復興院告示30号 1954年9月6日建告1391号
1973年6月12日県告379号
2004年5月17日県告360号
松島 64.9ha 19.24% 23.66% 8.61% 26.19% 1954年-1974年 1億7168万円 1969年4月30日 1954年9月6日建告1390号 1973年6月12日県告379号
2004年5月17日県告360号
弦打 47.4ha 10.02% 15.58% 9.59% 24.12% 1966年-1978年 7億4341万円 1973年3月31日 1965年12月27日建告3473号 1973年6月12日県告379号
2004年5月17日市告338号
古高松 10.0ha 16.61% 16.61% 9.69% 27.22% 1967年-1976年 9600万円 1971年1月7日 1967年9月8日建告2865号 2004年5月17市告338号
太田第1 78.2ha 14.80% 15.81% 8.75% 25.37% 1970年-1995年 56億1200万円 1989年10月13日 1970年10月15日県告1105号 1973年6月12日県告379号
2004年5月17日県告360号
南部第1 28.3ha 14.54% 15.36% 13.89% 29.40% 1972年-1987年 20億5803万円 1982年2月9日 1970年10月15日県告1106号 1973年6月12日県告379号
2004年5月17日市告338号
生島 組合 37.7ha 5.48% 5.48% -% 5.48% 1972年-1981年 17億8656万円 1979年2月27日 - -
高松浜 組合 18.9ha 27.44% 40.36% 0.17% 27.56% 1972年-1978年 14億2649万円 1976年3月11日 - -
高松町 組合 12.6ha 20.31% 28.14% 6.37% 25.77% 1973年-1978年 5億1276万円 1976年12月2日 - -
屋島 組合 58.7ha 18.71% 34.84% 10.17% 26.98% 1973年-1981年 42億5566万円 1979年6月14日 - -
太田第2 360.3ha 18.98% 21.29% 8.11% 25.55% 1986年-2013年 660億0000万円 2008年10月31日 1986年3月28日県告331号 2004年5月17日県告360号
高松港頭 27.8ha 29.61% 40.04% 9.23% 36.11% 1993年-2008年 438億4317万円 2004年4月6日 1992年12月11日県告841号 2004年5月17日市告338号
  • ※太田第2地区は2011年現在清算期間中のため総事業費、最終告示などは変更の可能性あり。

高松市で最初の土地区画整理事業は土地区画整理組合施工の西部土地区画整理事業で、1930年(昭和5年)度から5年をかけて、現在の昭和町及び紫雲町の全域並びに宮脇町一丁目の一部が区画整理された。

高松空襲によって大部分が焦土と化した市街地では終戦後、戦災復興都市計画の一環として戦災復興土地区画整理事業が市長名で計画・施工され、中心部で現在使用される幹線道路や街路の多くがこの時に整備される。これは新たな道路の建設に加え、それまで城下町の町割りに由来していた道路の多くが拡幅されるなど、市内の道路環境は著しく変化し、来る車社会の到来に備えた。その中でも目玉事業となったのがメインストリート「中央通り」の建設であった。計画当初は名古屋や札幌のような100m道路として建設する予定であったが、都市規模などを理由に50m、さらには現在の36m及び32mに大幅縮小されて建設された。

その後、高度経済成長の到来によって土地需要は増大し、市内でも1960年代から70年代にかけては特に盛んに区画整理事業が行われ、最も多い1973年時点では市立2事業と組合立4事業の実に6事業が同時進行していた。また、その時に施工が始まった南部地区については以降、第1地区以外の区画整理は実現していない。

やがて日本がバブル景気に突入すると、市内では太田第2土地区画整理事業という大規模事業が始まる。当事業の施工面積は360.3haと、施工期間中当時の土地区画整理事業としては全国でほんとんど例が無い大規模な事業であった[3]

そしてバブル崩壊後の失われた10年瀬戸大橋開通による周辺環境の変化によって高松市の活力と拠点性は低下し始めたため、都市に新たな魅力を創出するべく市街地再開発が複数計画された。その中でも高松港頭地区総合整備事業(通称:サンポート高松)は香川県と高松市による共同事業であり、高松港周辺を埋め立てて商業施設や公共施設を建設する巨大事業であった。その再開発地区内の道路整備として行われたのが高松港頭地区土地区画整理事業であり、これは市内初の県が施工主となって行われた区画整理事業である。


  1. ^ 高松丸亀町商店街ホームページ内G街区のページ参照
  2. ^ 香川県の都市計画” (PDF). 香川県 (2007年11月). 2011年1月26日閲覧。
  3. ^ 太田第2土地区画整理事業について





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