磐城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 16:15 UTC 版)
泉藩、湯長谷藩への攻勢
28日午前、新政府は植田で軍を二分し、薩摩藩、岡山藩、大村藩は海沿いを通り泉藩へと向かい、柳河藩、佐土原藩は山道を通り湯長谷藩・平藩へ向かった。
泉陣屋の占拠
列藩同盟軍は小浜付近に陣を築き、先鋒の薩摩2番隊を迎え撃った。これに対し、薩摩郡は軍を2つにわけて一隊で迂回攻撃をさせて挟撃して敗走させた。敗走した同盟軍はなおも泉藩の南方で陣を敷いたが、これも迂回攻撃に抗しきれず敗走を重ねた。同日、新政府軍は泉藩の藩庁泉陣屋に到着するが、藩主本多忠紀一行が退却した後だったため難なく占領した。泉に駐屯した新政府軍だったが、西 南方面からの銃声で湯長谷が戦闘中であることを知り、薩摩藩12番隊は戦闘中の柳河藩、佐土原藩を援護すべく新田坂方面へ向かった。また、続いて出発した薩摩藩1番隊は新田宿を通過して敵後方に回り込もうしていた。
湯長谷の占拠
柳河藩、佐土原藩は堅牢な陣地で抗戦する列藩同盟軍と相対し、攻略の糸口が掴めずにいた。だが午後、列藩同盟軍の左側背に突如として出現した薩摩藩12番隊に同盟軍は動揺し、柳河藩、佐土原藩も合わせて攻勢を開始する。さらに同盟軍の後背に大きく迂回してきた薩摩藩1番隊が現れるに至って戦況は決し、同盟軍は壊走状態となる。柳河藩、佐土原藩は湯長谷藩へ向けて前進した。
一方、仙台藩は汽船長崎丸と太江丸をもって磐城平城に増援を送り、輸送を終えた両船舶に平潟への砲撃を命じた。平潟の守りである笠間藩兵に不安のあった新政府側は仙台藩の上陸作戦を恐れて狼狽したが、兵員を既に下ろした両汽船は砲撃のみで引き上げていった。だが、新政府側の懸念は消えず、柳河藩兵を全軍呼び戻して平潟の警備に当たらせた。29日、柳河藩を守備に残したことにより山側の部隊が佐土原藩のみとなったため、新政府軍は再編成を行って岡山藩兵を山側に転換した。岡山、佐土原の両藩は前進を続け、湯長谷兵の主力は藩主内藤政養と共に高野方面にいたこともあって湯長谷館を難なく占領した。
増援として泉藩と湯長谷藩に向かっていた仙台藩柴田中務の1大隊は、林道通過中に左右から攻撃を受けて多数の死傷者と逃走兵を生じさせることになり、残存の部隊は磐城平城へ撤退した[10]。
- ^ 大山(1968: 500)
- ^ 大田(1980: 244)
- ^ 一老人の懐古談(大山 1968: 502)
- ^ 青木ほか(2000: 124)
- ^ 大山(1968: 502-503)
- ^ 大山(1968: 504)において、仙台藩記では「人見等裏崩れ致し敗走」と記述され、林忠崇私記には「仙兵裏崩れして、ついに敗走」と相反する記述がされていることを「面白いこと」として紹介している。
- ^ 星(2000: 189)
- ^ 大山(1968: 506)
- ^ 青木ほか(2000: 192)において「総州結城野州小山館林須坂両藩兵戦記」の陣羽織、鎖帷子、手槍の兵装を描写した記述を紹介している。
- ^ 星(2000: 190-191)
- ^ 石川(1989: 63)
- ^ 石川(1989: 62)
- ^ 大山(1968: 511)「「薩藩報」に「賊百二十一打ち取る」とあるから、仙兵が大きな死傷者を出したことは間違いない。」
- ^ 大山(1968: 511)
- ^ 星(2000: 190)
- ^ 星(2000: 191)
- ^ 大山(1968: 513)
- ^ 大山(1968: 514)
- ^ 「一団結にて仙台を討つべし」(大山 1968: 515)
- ^ 星(2000: 193)
- ^ 大山(1968: 516)
- ^ 「7月7日に5小隊を援軍に送り、何隊かは城内に入らず四ツ倉に残った。」(大山 1968: 516)
- ^ 大山(1968: 519-520)
- ^ 大山(1968: 521)
- ^ 大山(1968: 521)において、「この頃すでに態度を変ずるの準備ありしなり」との仙台戊辰史(620)の記述を紹介している。
- ^ 大山(1968: 521-522 著者私見)
- ^ 大山(1968: 520)
- ^ 青木ほか(2000: 52)
- ^ 大山(1968: 520)および星(2000: 210)
- ^ 大山(1968: 524)
- ^ 兵数については、石川(1989: 73-74)
- ^ 大山(1968: 525)
- ^ 大山(1968: 532)「遺棄せる器械、糧食、村中に狼藉たり」
- ^ 大山(1968: 526)
- ^ 大山(1968: 533)
- ^ 大田(1980: 250)
- ^ 大山(1968: 538)において、仙台藩記の「相馬すでに盟を破りて疑を西軍に通じ」との記述を、奥羽越同盟軍の信頼関係の薄らいだ証左として紹介している。
- ^ 星(2000: 239)
- ^ 大山(1968: 539)
- ^ 大山(1968: 542)
- ^ a b 大山(1968: 543)
- ^ a b 大田(1980: 251)
- ^ a b 星(2000: 240)
- ^ 「吉田屋覚日記」に列挙している分捕り品は、武器弾薬、米穀、主だった家財、金蔵、土蔵、金銭衣類、家具。他に毎日450俵の米と、味噌、薪、油、蝋燭が課せられた。農村からは人足の他、兵員2800名が徴された(星 2000: 241)。
- ^ 大田(1980: 254)
- ^ 大山(1968: 544)
- ^ 星(2005)
- ^ 青木ほか(2000:118)
- ^ 星(2000: 252)
- ^ 大田(1980: 303)
- ^ 大山(1968: 576)
- ^ 戊辰戦争によって焼失した磐城平城の跡地が切り売りされ、そこに民家が建てられた時期も、この明治政府占領下である。
- ^ 小林・山田(1970: 196)
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