熊倉城 熊倉城の概要

熊倉城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 01:18 UTC 版)

概要

城名は城山が熊倉山に連なる峰であったからとみられているが、中世期の文献には「熊倉城」の名前がなく、江戸時代以降の命名である可能性がある(「熊倉城」の名前は『新編武蔵風土記稿』に登場する[1])。そのため、中世期には村名より「日野城」と呼ばれていたと考えられている。

主君・上杉顕定に反抗した長尾景春は、拠点である鉢形城・長井城を失い、秩父郡へと逃亡、再起を期して築城した城の1つと考えられている。だが、文明12年(1480年)に景春は上杉方の太田道灌に攻められて日野城(熊倉城:「太田道灌状」には“日野要害”と記載)に追い込まれ、同年6月24日に同城は落城(日野城の戦い)、拠点を失った景春は逃亡し、長尾景春の乱は終結した(後に景春は下総国古河公方の下に亡命する)。その後、鉢形城の支城として上杉氏北条氏武田氏などの支配下に置かれ、遅くても小田原の役によって廃城になったと考えられている。

城は熊倉山から北へ伸びる城山の尾根に沿って大手門があったとみられる南東から北西に向かって築かれ、尾根と荒川およびその支流が形成した崖と渓谷に阻まれた天然の要害であった。城跡の外周は急斜面となっており、中央部の本丸を囲むように空堀が巡らされていたことが知られている。

参考文献

  • 荒川村郷土研究会『長尾景春と熊倉城』荒川村役場、1982年(所収: 黒田基樹編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戎光祥出版、2010年)ISBN 978-4-86403-005-2
  • 「日野村 城山」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ263秩父郡ノ18、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764014/87 



「熊倉城」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「熊倉城」の関連用語

熊倉城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



熊倉城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの熊倉城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS