滎陽の戦い 戦後

滎陽の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:23 UTC 版)

戦後

劉邦はいったん拠点の関中に引き返して態勢を立て直して、再び楚に対する反攻を開始することになった。

和睦と裏切り

補給を受けた漢軍は楚軍と滎陽の北の広武山で対陣したが、両軍とも食料が尽きたので、和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。

ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は韓信彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし韓信と彭越はやって来ず、漢軍は楚軍に敗れた。

張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と答えたが、張良は「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの活躍しましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」と言った。

なおも納得ができず、恩賞を渋る劉邦に対し、張良は「彼らの恩賞を見て天下の人々はどう思いますか? 陛下が天下の半分を取りながら恩賞を出し惜しんでいると思いましょう。私は陛下が物を惜しんでいないのはよく存じております。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じることも悪びれることもなく動かなかったのです」これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、両者はその後漢軍に合流することになった。


  1. ^ a b 史記』項羽本紀、『漢書』高帝紀第一上より。おなじく『史記』高祖功臣侯者年表第六では、紀信は紀元前206年秋に好畤で雍王章邯の弟の章平と姚卬と戦って戦死したと記されている。


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