山口正造 山口正造の概要

山口正造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:59 UTC 版)

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人物

明治期の日光金谷ホテル

1882年(明治15年)7月、栃木県日光金谷ホテルの金谷善一郎の次男・金谷正造として生まれる[1][2]。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている[2][3][4][5]

1893年(明治26年)、父・善一郎が「金谷ホテル」を開業。築地にあった立教学校(立教大学の前身の一つ)初代校長で建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーの薦めで、ホテル開業前年の1892年(明治25年)に3歳上の兄・金谷眞一が立教学校で学んだことから、その後正造も兄と同じく立教学校で英学を学んだ。英語は外国人向けのホテルを運営していく上で必要なものであった[6]。在学中、正造は語学の他に柔道、銃剣術というのを得意にしていた[2]

立教学校卒業後、世界一周を目指して長く外国を旅する。特にイギリスには長期滞在し、その時も得意の英語を活かした[2]

明治期の箱根富士屋ホテル

1906年(明治39年)に帰国し、翌1907年(明治40年)25歳で箱根富士屋ホテルの創業家である山口家の婿養子になり二代目経営者として手腕を発揮していく[7]。外国経験が豊富で、語学が達者であり、ヨーロッパ等のホテルをたくさん見てきていたことから、日本のホテルにそれまでなかったことを取り入れていったのである[2]

正造が富士屋ホテルに取り入れたものには大きく分けて2つあり、1つは1930年(昭和5年)から『We Japanese』という日本を紹介する記事を英語で執筆して発行し、宿泊する外国人に配布した。これが好評で、それを後でまとめて1冊の本にして販売したところ、日本を訪れた記念として飛ぶように売れた。もう1つは、1929年(昭和4年)に自ら校長としてホテル実務学校の開設を行った。学校では実務を中心に3年間研修し、ホテルの実務を実際に自分で経験しながら覚えるといったものであった。戦後まもなく日本のホテルが苦労した時代に、活躍したのはこの富士屋ホテル学校出身者が多かったとされる[2][7]

正造は1944年(昭和19年)に亡くなるが、戦後まもなく、『正造記念育英会事業』が始まり、1946年(昭和21年)に、正造の遺族と日本ホテル協会の人が立教大学を訪ね、正造の遺志を継いで、母校の立教大学でホテル関係の人材育成活動を続けてほしいとする申し出を行った。こうして立教大学に開設されたのが、日本の大学での観光教育のさきがけである『ホテル講座』で、1967年に社会学部観光学科、1998年には日本初の観光学部が開設されるなど、現在の観光教育に受け継がれている[2]

脚注




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