八卦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 03:12 UTC 版)
香港風水で用いる連山易・帰蔵易(先天易)の八卦
以上は日本や中国大陸などで使われているいわゆる周易(後天易)の八卦について述べたが、香港風水で用いる連山易・帰蔵易(先天易)では八卦の配置が異なる。 易は先天易と後天易に大別され、連山易・帰蔵易・周易の三易は連山易・帰蔵易は先天易、周易は後天易である。連山易は夏王朝の易、帰蔵易は殷王朝の易とされる。[3]
連山易・帰蔵易については魏晋南北朝時代の偽作ではないかと言われていたが、1993年に王家台秦墓から帰蔵易が発見されたため偽作説はくつがえった。連山易・帰蔵易についての正史の記録は、劉昫『旧唐書』の宮中の蔵書目録「経籍志」が最古である。[4]旧唐書の本文(通行本の中華書局本)には「『帰蔵』十三巻は殷の易なり、司馬膺の注。」とある。なお、現在の『旧唐書』は一度消滅した書物を後世の学者(明の聞人詮(中国語: 闻人诠))があちこちから集めて復元したもので、脱落が多く、復元する学者によって内容が異なる。羅士琳『旧唐書校勘記』巻二八では「『連山』は司馬膺の注、夏の易なり。『帰蔵』十三巻は晋の(中略)薛貞の注、殷の易なり」という本文だったものが、脱落して今の形になったのではないかと推定している。[5]すなわち、正史の記載によれば少なくとも唐代までは連山易・帰蔵易が伝わっていたが、宋・元時代に何らかの問題で消滅してしまった可能性がある。『帰蔵』十三巻は南宋の頃には既に三巻しか無くなっていた。この本を見た南宋の鄭樵は「帰蔵易は占いのことだけが書かれており、内容は質素で相当古いものであろう。しばしば後世の偽作だと言われているが、後世の人間が書けるようなものではない」と述べている。[6]現在の連山易・帰蔵易は敦煌文書の一つ『輔行訣臓腑用薬法要』から復元したものである。
羅士琳らの説が正しいとすれば、北宋時代までは連山易は夏王朝の易と伝承されていたことになる。また帰蔵易は殷の易とされる。
風水説では連山易は天・帰蔵易は地・周易は人、とされ、天地人の三才に当てられることもある。その方位図は風水の道具、羅盤などに使用されている。
『帰蔵』の爻辞は易経(周易)のものと大幅に異なっており、孔子により哲学的な解釈が追加された周易と異なり、純粋に占いのことしか書かれていない。逆にこのことが周易に比べて連山易・帰蔵易が振るわなかった理由であった。周易も元々は占いの本だけであったが、後世、繋辞伝などの哲学的な注釈が付与されて中国哲学の基本書にまで出世したのに比べ、連山易・帰蔵易は占いのことしか書いておらず、卑俗とされていたからである。[7]
連山易・帰蔵易・周易の三易は八卦および六十四卦の配列方法も異なっており、周易は乾から始まるが、連山易は震から、帰蔵は坤から始まる。
連山易・帰蔵易に基づく「雒粤(らくおう)中天八卦」 の八卦配置
漢方医学の書、南朝梁の陶弘景の撰と伝える『輔行訣臓腑用薬法要』では連山易・帰蔵易に基づく八卦の記載があり、香港で広まりつつある。
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- ^ 書き下しは諸橋轍次『中国古典名言事典』講談社学術文庫、1979、P237-p238に依拠した。
- ^ 諸橋1979。諸橋は『大漢和辞典』の編者として著名だが、専門は朱子学者であり、『朱子学大系』などの編著もある。
- ^ 川村潮「『帰蔵』の伝承に関する一考察--附、『帰蔵』佚文輯校」、早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊、2005
- ^ 川村2005によれば、正史ではなく野史を含めると時代は大幅に遡り、後漢の野史・桓譚『新論』に連山易・帰蔵易について記載があるという。
- ^ 劉・旧唐書及び川村2005。なお、川村潮2005は聞・羅いずれも否定しており、「『帰蔵』十三巻は司馬膺・薛貞の注」とよむべきだとしている。
- ^ 川村2005
- ^ 川村2005
- ^ 加藤徹『京劇 政治の国の俳優群像』中央公論新社
- ^ 主な国語辞典では『大言海』『新明解国語辞典』がこの説を採る。『広辞苑』『大辞泉』は『「八卦良い」の意か』にどどまる。なお、日本相撲協会は「発気揚々」説を採っており、『大辞林』『明鏡国語辞典』は両説併記。
- 1 八卦とは
- 2 八卦の概要
- 3 八卦の歴史
- 4 香港風水で用いる連山易・帰蔵易(先天易)の八卦
- 5 フィクションなど
- 6 関連項目
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