今川氏親 系譜

今川氏親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 12:51 UTC 版)

系譜

下記指摘を踏まえつつ「土佐国蠧簡集残篇四」所収今川系図に順ずる

今川義元#研究も参照

氏親の男子の出生順は、通説では氏輝・彦五郎・玄広恵探・栴岳承芳(義元)とされるが、これについては近年様々な異説がある。例えば、黒田基樹は氏輝・玄広恵探・彦五郎・栴岳承芳(義元)とする説[51]を採り、大石泰史は氏輝・玄広恵探・栴岳承芳(義元)・彦五郎の順とする説[52]を採る。なお、黒田・大石ともに氏豊・象耳泉奘は江戸時代初期の今川氏の系譜にみられないことから、氏親の子ではないとする見解を採り(今川氏一門の出身であった可能性はある)、黒田は氏親の女子で実在を確認できるのは、吉良義堯室(徳蔵院)・中御門宣綱室・北条氏康室(瑞渓院)・瀬名貞綱室の4名[注釈 7]とし、瀬名貞綱の実弟である関口氏広の室を義元の妹とするのは兄・貞綱との誤認と推測している他、小笠原春義の室や鵜殿長持の室に関しても『寛政重修諸家譜』には記述があってもそれよりも古い『寛永諸家系図伝』には記載がなく事実ではないとする。


注釈

  1. ^ かつては文明3年(1471年)誕生説が通説であったが、永正11年5月13日に宗長らとの間で行われた『浅間千句』が氏親の42歳の厄年除けの参詣の際に行われたことが記されており、逆算すると文明5年生まれとなる[5]
  2. ^ 近代以降は史書でも小説でも妹と書かれているものが多いが、妹というのは新九郎の生年を永享4年(1432年)とする『北条五代記』に従うと、姉では年をとり過ぎて計算が合わないため妹と考えられたものである。だが、江戸時代の資料では姉、または叔母と記述されており、更に最近の研究では『北条五代記』の説を否定して、新九郎の生年は康正2年(1456年)であると考えられている。その場合、北川殿を姉とする江戸時代の文書の記述が正しかったことになる[6]
  3. ^ 『宗長日記』によれば永正15年(1518年)頃から病気で領国統治も軍事行動も行えなくなったとするが、その後も発給文書を出している上、義元の誕生前にあたるため、初めはそこまで重くなかったとみられる。氏親が重篤になるのは発給文書から氏親の花押が消える大永3年(1523年)以降と推定される[41][42]
  4. ^ 法名徳蔵院殿芳山春公大姉。『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」では氏輝が先にかつ嫡男と記されながら、嫡女の記載がある。これを根拠に黒田は氏輝の姉としている。[50]
  5. ^ 法名竜泉院殿光厳瑞国大姉。
  6. ^ 『土佐国蠧簡集残篇四』所収「今川系図」、『寛永諸家系図伝』など
  7. ^ 今川氏の系譜を見ると、瀬名貞綱の室は義元の「妹」[注釈 6]とされているが、『言継卿記』弘治2年11月28日条の「瀬名殿女中(中略)太守の姉、中御門女中妹」の記述から、実在の確認できる氏親の娘は全て義元(=『言継卿記』の「太守」)の姉となる[53]

出典

  1. ^ a b c 大久保俊昭. “今川氏親(いまがわうじちか)とは - コトバンク”. 2017年7月22日閲覧。
  2. ^ 小和田 1983, p. 142.
  3. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 91.
  4. ^ 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
  5. ^ 大塚勲「今川氏親年譜史料」『今川史研究余録』(私家版)、2008年。 /所収:黒田 2019, pp. 158–159
  6. ^ 黒田 2005, pp. 13–17.
  7. ^ 小和田 1983, pp. 133–134.
  8. ^ 小和田 1983, p. 134.
  9. ^ 家永 2013, pp. 235–236.
  10. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 96.
  11. ^ 家永 2005, p. 46.
  12. ^ 家永 2013, pp. 236–238.
  13. ^ 黒田 2019, 「戦国大名・伊勢宗瑞」.
  14. ^ 黒田 & 2019-01, p. 44.
  15. ^ 小和田 1983, pp. 148–149.
  16. ^ 黒田 2019, p. 18, 「今川氏親の新研究」.
  17. ^ 家永遵嗣「今川氏親の名乗りと足利政知」『戦国史研究』59号、2010年。 /所収:黒田 2019, pp. 83-88・91
  18. ^ 黒田 2019, pp. 18–20, 「今川氏親の新研究」.
  19. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 125.
  20. ^ 小和田 1983, pp. 153–154.
  21. ^ 黒田 2019, pp. 20-21・34・38-39, 「今川氏親の新研究」.
  22. ^ 黒田 2019, pp. 21–34, 「今川氏親の新研究」.
  23. ^ 『靜岡縣史料』4輯、靜岡縣、1938年、192頁。
  24. ^ 黒田 2019, pp. 35–36, 「今川氏親の新研究」.
  25. ^ 黒田 2019, pp. 20-21・36, 「今川氏親の新研究」.
  26. ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版〈中世武士選書 42〉、2019年、46-47頁。ISBN 978-4-86403-335-0 
  27. ^ 黒田 2019, pp. 42–43, 「今川氏親の新研究」.
  28. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 176.
  29. ^ 米原正義「駿河今川氏の文芸」『戦国武士と文芸の研究』桜楓社、1976年、834頁。 
  30. ^ 第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 岡崎市歴史的風致維持向上計画. 岡崎市. p. 79. 2022年6月3日閲覧。
  31. ^ 黒田 2019, p. 44, 「今川氏親の新研究」.
  32. ^ 黒田 2019, p. 43, 「今川氏親の新研究」.
  33. ^ 小和田 1983, p. 159.
  34. ^ 黒田 2019, p. 46, 「今川氏親の新研究」.
  35. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 191.
  36. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 204.
  37. ^ 黒田 2017, pp. 37–39.
  38. ^ 小和田 1983, pp. 162–163.
  39. ^ 小和田 1983, pp. 164–166.
  40. ^ 小和田 1983, p. 166.
  41. ^ 黒田基樹「〈今川仮名目録〉の世界」『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻〉、2019年6月、48頁。ISBN 978-4-86403-322-0 
  42. ^ 大石 2019, p. 11, 大石泰史「総論 今川義元の生涯」.
  43. ^ クロニック戦国全史 1995, p. 230.
  44. ^ 小和田 1983, pp. 164.
  45. ^ 小和田 1983, pp. 160–161.
  46. ^ 小和田 1983, pp. 168–171.
  47. ^ 黒澤脩 著「今川氏親と曹洞禅」、東国戦国史研究会 編『関東中心戦国史論集』名著出版、1980年。 /所収:黒田 2019, pp. 229–244
  48. ^ 黒澤脩 著「今川氏執権の雪斉長老と寿桂尼」、今川氏研究会 編『駿河の今川氏 第1集』1975年。 /所収:黒田 2019, pp. 245–260
  49. ^ 今枝愛眞「戦国大名今川氏と禅宗諸派」『静岡県史研究』14号、1997年。 /所収:黒田 2019, pp. 261–279
  50. ^ 黒田 2017, pp. 38–39.
  51. ^ 黒田 2017, pp. 40–63.
  52. ^ 大石 2019, pp. 10-11・38, 大石泰史「総論 今川義元の生涯」.
  53. ^ 黒田 2017, pp. 53–55.


「今川氏親」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「今川氏親」の関連用語

今川氏親のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



今川氏親のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの今川氏親 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS