ヴィクトル・アバクーモフ 失脚

ヴィクトル・アバクーモフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 00:40 UTC 版)

失脚

1951年7月に医師団陰謀事件で十分に活動しなかったことから国家保安大臣を解任された。アバクーモフの活動の調査のために委員会が設置され、彼の政敵であるゲオルギー・マレンコフ、ベリヤ、M.シュキリャトフ、セミョーン・イグナチェフが委員となった。1951年7月12日、国家保安省内の「シオニストの陰謀」を隠蔽した嫌疑で逮捕。取調時、アバクーモフは拷問を受け、間もなく完全な廃人となった。スターリンの死とベリヤの逮捕後も釈放されることはなく、1954年12月、ソ連最高裁判所軍事部会は、レニングラード事件を含む事件のでっち上げでアバクーモフを起訴し、彼を「ベリヤ・ギャング団の一員」と呼んだ。アバクーモフは、「スターリンが指示し、私はそれを執行しただけだ」として、無罪を主張した。裁判所は祖国反逆・妨害活動・テロ行為の実行・反革命組織への参加で有罪と認め、死刑を言い渡した。1954年12月19日にレニングラードで処刑され、遺骨はレバショフの集団墓地に投げ捨てられた。

1994年にロシア最高裁判所軍事部会は、祖国反逆の起訴内容を解除し、アバクーモフを部分的に名誉回復した。1997年には死刑判決も取り消され、懲役25年が妥当であるとされたが、冤罪捏造の罪状は事実であると確認された。

パーソナル

赤旗勲章、1等及び2等スヴォーロフ勲章、1等クトゥーゾフ勲章赤星勲章、モスクワ防衛記章、スターリングラード防衛記章、カフカース防衛記章を受章。

フォックストロットサッカーが趣味で、レストランの「アラグヴィ」からシャシリクを取り寄せるのが常だった。

脚注

注釈

関連項目

先代
フセヴォロド・メルクーロフ
ソビエト連邦国家保安大臣
1946年 - 1951年
次代
セミョーン・イグナチェフ

  1. ^ ラテン文字表記の例:Viktor Semyonovich Abakumov


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