ルーベンス・バリチェロ エピソード

ルーベンス・バリチェロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 10:24 UTC 版)

エピソード

  • 母国GPであるブラジルGPにはデビュー年から2009年まで17年連続で出走しているが、優勝は無い。フロントローを獲得したことは4回あるが、決勝レースでは2004年の3位表彰台に立ったのが最高でリタイアが多く、その数は実に11回にものぼる。ポールポジションからスタートした2003年にはトップ走行中にガス欠という、当時のフェラーリとしては珍しい原因でリタイアしている。ちなみに、バリチェロの後任としてフェラーリ入りした同国人のフェリペ・マッサは、移籍初年度に地元優勝を達成した。
  • F1ドライバーの中でも雨のレースを得意とする一人である。1993年ヨーロッパGPでの快走、1994年ベルギーGPでの初ポールポジション、2000年ドイツGPでの初優勝(雨中ドライタイヤで走る賭けが成功)など、印象的な活躍場面に雨が絡んでいる。
  • 元妻のシルヴァーナ(Silvana)はブラジルにおいてレース一族として知られるジアフォーネ家の出身で、インディ・レーシング・リーグ(IRL)に参戦していたフェリペ・ジアフォーネの従妹にあたる。フェリペ・ジアフォーネはバリチェロにとっては仲の良いドライバーの一人で、年末にサンパウロで開催されているカートの500マイル耐久レースではバリチェロとジアフォーネほかのチームは5回の優勝を誇っている。
  • 大抵のブラジル人ドライバーと仲が良いが、その中でも最大の親友といえるのはトニー・カナーンで、互いに兄弟のようなものと認めるほどに仲が良い。バリチェロがイギリスに滞在していた当時、ヨーロッパ修行中のカナーンを数週バリチェロの部屋に泊めたエピソードは二人の間でしばしば語られ、大抵の場合、バリチェロは「そういえばあの時、奴がいなくなった後に靴がなくなったな…」と同じ冗談を口にする。2006年にはモナコGPでバリチェロが自身のヘルメットをカナーンのそれと同じカラーリングにし、同日に開催されたインディ500ではカナーンが自身のヘルメットをバリチェロのそれと同じカラーリングにした。
カーナンバー11を付けた2006年バリチェロ仕様のショーカー
  • カートで初優勝した時のカーナンバー、カーナンバー「11」がバリチェロのラッキーナンバーである。カートにおいてはこのカーナンバーとともに多くの優勝を記録した。2006年のホンダチームはカーナンバー11と12を付けることになり、本来エースナンバーであるカーナンバー11の権利はジェンソン・バトンにあったが、この番号がバリチェロにとってのラッキーナンバーであることを知ったバトンにより「友好の印」として贈られ、この年はバリチェロがカーナンバー11を付けた。F1においてはこの年のほか、1996年、2011年もカーナンバー11を付けて出走している。
    一方、F1において最も多く付けたカーナンバーは5年を共にした「2」で、これはチームメイトのミハエル・シューマッハが5年連続でドライバーズチャンピオンのタイトルを獲得したことによる。余談だが、バリチェロのF1での通算勝利数も「11」である。
  • 祖父と父親の名前も「ルーベンス(フーベンス)」である[19]。加えて、父親であるルーベンス・バリチェロJr.(フーベンス・バヒケール・ジュニオール)にいたっては誕生日も息子と同じ5月23日である[20]。バリチェロの愛称である「ルビーニョ(フビーニュ)」(Rubinho)は「小さいルーベンス(フーベンス)」という意味で、元々は祖父フーベンス、父親フーベンス・ジュニオールとの呼び分けから来ている。
  • バリチェロ自身は、2001年に生まれた長男に「ルーベンス(フーベンス)」ではなくエドゥアルドゥ(Eduardo)、2005年に生まれた次男にはフェルナンドゥ(Fernando)と付けている。妻のシルヴァーナは日系ブラジル人3世でもあるため、バリチェロの2人の子息は日系4世にあたる。
  • 2000年ドイツGP、2003年イギリスGPでは、不審者がコース上に侵入してセーフティーカーが導入されるという珍事があったが、バリチェロはこの両レースを制している。
  • 2008年11月25日、ブラジルのテレビ局『Rede Globo』の番組『Fantastico』に出演し、シューマッハに勝利を譲って物議を醸した、2002年第6戦オーストリアGPについて言及した。バリチェロによると、首位走行中に残り8周に差し掛かかった時点で、ピットから指示が入った。そして『後ろにミハエルがいる、チャンピオンシップにどれだけ重要なことか分かるな。』と言われ、周回が進むにつれて言葉が強くなり、『もし従わない場合は、契約を考え直す。』と言われたという。さらにバリチェロは、このことを『シューマッハが知っていた証拠がある。』とも語った[21]
  • 2009年シーズン中盤以降の白いヘルメットは息子がデザインしたもの。
  • 2009年全戦に参戦したバリチェロだったが、開幕当初は序盤4戦のみの契約で、その間に持参金ドライバーが現れればシートを明け渡すという内容だったことを明かしている。
  • 2010年7月11日放送のBBCの自動車番組「トップ・ギア」第15シーズン3回目の放送で「Star in a Reasonably Priced Car」コーナーに出演。それまで1位だったナイジェル・マンセルの1分44秒6の記録をコンマ3秒上回る1分44秒3の最速記録を出した。これはスティグの参考記録である1分44秒4をも上回る記録であり、よほど嬉しかったのか、自分用に「I beat the Stig(私はスティグに勝った)」と書かれたTシャツを、出演したが記録を破れなかったF1ドライバー用に「I didn't beat the Stig(私はスティグに負けた)」と書かれたTシャツをそれぞれ制作、過去同番組に出演・アタックしたF1ドライバーに配布した。このうちジェンソン・バトンが同月行われたF1ドイツGPで「私はスティグに負けた」シャツを着用している他、バリチェロ本人も息子に「My Dad beat the Stig(僕のお父さんはスティグに勝った)」Tシャツを着せて会場に登場。番組でも同シーズン6回目の放送で取り上げられた。ちなみにバリチェロによる記録更新後、番組のスティグ登場時に行われる噂話紹介では、「バリチェロの人形をデスクファンで痛めつけている」等ネタにされていた。なお、この記録は第17シーズン(2011年)に出演したセバスチャン・ベッテルが1分44秒0に更新する。
  • 今まで最も怖かったレースは鼻骨骨折した94年のサンマリノGPではなく、07年の日本GPと述べている。『まるで飛行機が厚い雲の中に入ったようなものだった。しかも2時間ずっとね』とのこと(実際ドクターヘリが飛べないほどの視界だった。詳細は記事を参照)[22]
  • F1引退の危機に際し、2度も母国の後輩ブルーノ・セナが後釜に座る予定で関わる事となった。
  • F1ドライバーの小林可夢偉TENGAの購入を依頼し、2011年のF1中国グランプリ決勝レース前夜に使用した。
  • F1では通算11勝を上げたが全てロス・ブラウンとともに築き上げた勝利である。
  • 2014年シーズンの母国グランプリを含む最後の3戦をケータハムからレギュラードライバーの小林可夢偉に代わって出走する予定だった。しかしチームは破産しグランプリを欠場することになったため実現しなかった。[23]
  • 当時F1実況を担当していた古舘伊知郎からは、「ヒロミに似ている」「ジミー大西に似ている」などと紹介されていた。

  1. ^ a b ルーベンス・バリチェロformula1-data.com(2019年8月16日)2020年11月18日閲覧。
  2. ^ フェルナンド・アロンソによって更新された。
  3. ^ マーク・ウェバーに更新された(132戦目)。
  4. ^ バリチェロの前のスロー優勝の記録保持者は、前年のワールドチャンピオン、ミカ・ハッキネン(1997年最終戦ヨーロッパGP、99戦目)である。また、後方からによる優勝は、1983年に予選22位から優勝したジョン・ワトソンに次ぐ歴代2位の記録である。
  5. ^ “チームオーダーの余波、FIAがフェラーリを事情聴取へ---F1オーストリアGP”. Responce.jp. (2002年5月14日). http://response.jp/article/2002/05/14/16846.html 2010年7月28日閲覧。 
  6. ^ ルーベンス・バリチェロ、2002年にフェラーリから脅されたwww.topnews.jp(2012年5月11日)2020年7月2日閲覧。
  7. ^ 予選最終アタックには決勝スタート時の燃料を搭載して出走することが義務付けられ、予選と決勝の間のセッティング変更が禁じられた。
  8. ^ 以下、アイルトン・セナアラン・プロストの組み合わせ(14回)、ミカ・ハッキネンデビッド・クルサードの組み合わせ(13回)。
  9. ^ ブラウンGP:バリチェロが3番手タイム (バルセロナテスト2日目)f1-gate.com(2009年3月11日)2020年7月24日閲覧。
  10. ^ バリチェロがGPDA新会長に就任 - ESPN F1・2010年8月28日
  11. ^ ウィリアムズ、ルーベンス・バリチェロの残留を発表 - F1-Gate.com・2011年11月15日
  12. ^ ルーベンス・バリチェロ、KVレーシングでインディカー参戦が決定- f1-gate.com 2012年3月2日
  13. ^ STC2000:ルーベンス・バリチェロ、トヨタ・カローラでフル参戦決定。南米最高峰掛け持ち参戦へ”. AS-Web (2020年2月7日). 2021年9月29日閲覧。
  14. ^ ライコネン、前人未到の323戦へ「記録が懸かろうが僕は普段どおりにレースをするだけ」F1アイフェルGP Alfa Romeo《preview》2020formula1-data.com(2020年10月7日)2020年11月18日閲覧。
  15. ^ “ハンガリーGP木曜日の記者会見パート2”. espn F1. (2010年7月30日). http://ja.espnf1.com/hungary/motorsport/story/24738.html 2010年7月30日閲覧。 
  16. ^ Barrichello milestones - 300 Grands Prix and counting - formula1.com・2010年8月26日
  17. ^ ルーベンス・バリチェロ、スパがF1参戦300戦ではない? - f1-gate.com・2010年8月26日
  18. ^ バリチェロ、自らのF1最多出走記録に並んだライコネンを祝福「今度乾杯しよう!」jp.motorsport.com(2020年10月1日)2020年11月18日閲覧。
  19. ^ アーカイブされたコピー”. 2012年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月8日閲覧。 インタビュー:ルーベンス・バリチェロ(本記事「ルーベンス・バリチェロ」の祖父)
  20. ^ アーカイブされたコピー”. 2007年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月2日閲覧。 My story: ルーベンス・バリチェロ公式サイトより
  21. ^ F1-Live.com
  22. ^ F1 RACING日本版 2011年1月情報号の本人のインタビューより
  23. ^ “バリチェロのカムバックを予定していたケータハム”. ESPN F1. (2014年11月5日). http://ja.espnf1.com/caterham/motorsport/story/182447.html 2014年11月5日閲覧。 






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