ルワンダ虐殺 ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言

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ルワンダ虐殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 04:27 UTC 版)

ルワンダ愛国戦線の再侵攻と戦争終結宣言

ルワンダ愛国戦線の侵攻ルート。4月は主に北東部と首都キガリへ(茶色の矢印)、5月と6月は中部へ(オレンジの矢印)、7月はブタレなど残りの地域へ(ピンクの矢印)へ、それぞれ進んだ。

アルーシャ協定によりキガリへ駐屯していたルワンダ愛国戦線の大隊は、大統領の搭乗する飛行機の撃墜を受け、キガリからの脱出と北部に展開するルワンダ愛国戦線本隊との合流を目的とした軍事行動を即座に開始した[157]。また事件翌日の4月7日に、ルワンダ愛国戦線は"大統領機の撃墜は大統領警備隊によるものである"として全軍に対してキガリへの進軍を命じた[133]。その結果、ルワンダ政府軍とルワンダ愛国戦線による内戦と、フツ過激派によるジェノサイドが7月初頭まで続くこととなった。そのため、海外の報道員にはジェノサイドが行われていることがすぐには分からず、当初の頃は内戦の激変期として説明されていた。そんな中でBBCニュースのキガリ特派員であったマーク・ドイル英語版は、1994年4月下旬点でこの入り組んだ事態の説明を行おうと試み、以下のような報道を行った。

ここで2つの戦争が行われていると解釈して頂かなくてはなりません。それは武力戦争とジェノサイド戦争です。この2つは関連しておりますが、一方で別個のものでもあります。武力戦争は通常通りの軍隊同士によるもので、ジェノサイド戦争は政府軍と政権を支持する市民の側に立った政府に関係する大量虐殺です[158]

ルワンダ愛国戦線は1994年7月4日に首都キガリおよびブタレを制圧し、同月16日には政府軍の最終拠点であったルヘンゲリを制圧、その2日後の18日にカガメ司令官が戦争終結宣言を行った。これはハビャリマナ大統領の暗殺からおよそ100日後のことであった。


  1. ^ 1990年におけるルワンダの非識字率は46.6%であった。[52]
  2. ^ カンボジアの人口動態はルワンダのようにはなっていない。ポル・ポト政権崩壊後、緩やかに人口が10年以上を要して復元している。





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