ノーサンブリア王国 文化

ノーサンブリア王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/11 02:13 UTC 版)

文化

ノーサンブリアはその黄金期において、イギリスにとって宗教の普及や拡散における重要な中心地となった。まず当時ケルト教会に属するアイオナ島(現在はスコットランド領)よりアイルランド人の修道僧がノーサンブリアに来訪、そしてこの地に修道院が根付くようになる。635年ノーサンブリア東岸のリンディスファーン島にアイオナ島より聖エイダンが来訪。リンディスファーンは一大修道院となり、後世ウィルフリッドや聖クスベルトのような人材を輩出した。またノーサンブリア貴族であったベネディクト・ビスコップ(en:Benedict Biscop)はローマを訪問、後にケント王国にあるカンタベリーの修道院長となった。さらに彼はモンクウェアマウス・ジャロー修道院(en:Monkwearmouth-Jarrow Abbey)を建設。この修道院はダブル・モナステリー(en:double monastery) - 男性と女性の修道士が同じ場所で礼拝を行う修道院で当時はこのような形態が多かった - となっており、このように今までケルト系教会の影響を受けていたノーサンブリア王国が直接ローマ教会の影響力も加わる事となった。またこの修道院では後世チェオルフリスやベーダのような人材を世に出している。

ノーサンブリアはまたブリテン島の美術の中心地として重要な役割を演じ、アングロサクソン、ケルト、ピクト、ビザンティンなどの美術要素を組み合わせた文化を作り上げた。有名な美術作品としてはリンディスファーンの福音書、聖クスベルトの福音書(en:St Cuthbert Gospel)、アングロサクソン様式に装飾された十字架であるラスウェル十字(en:Ruthwell Cross)やビューカースル十字(en:Bewcastle Cross)、またこれはアイオナ島で作られたものとされるが、ケルズの書が挙げられる。

664年ウィットビー教会会議の後、ノーサンブリア王国は今まで影響下であったケルト系キリスト教に代わり正式にローマ・カトリック教会の傘下となった。しかしその後もケルト系キリスト教の影響は続いており、その傾向はリンディスファーンの福音書にも見られる。またモンクウェアマウス・ジャロー修道院ではベーダが731年にイングランド教会史を校了、この書の内容の多くはノーサンブリアに関する著述で占められている。しかし8世紀になるとバイキングが侵略を始め、リンディスファーン修道院はヴァイキングによって731年略奪を受けてしまう。バイキングの侵略はアングロサクソン文化を阻み、その後もイスビー十字(en:Easby Cross)に見られる優れた美術作品を産出するものの、それまで文化の中心地として担っていたノーサンブリアはその役割を終えた。

現在でもノーサンブリア特有のタータンチェックが存在しており、古くからのタータン模様につながるものとされる。例えばフォルカークで見受けられるタータン様式はローマ時代(もしくはそれ以前)のユトランド地方のものと似ている。現在のタータンは白と黒の太線の交差ではあるが、古来のタータンは脱色していないウール地で黄色っぽい白、それにダークグレー、青、緑ないし茶色の色とりどりの線で交差したものである。この文様はボーダードラブ(Border Drab)とも呼ばれ、遠くからではタータンチェックの模様がカモフラージュ効果を生み出し、狩猟などに適したものとなるらしい。







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