テトラルキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 15:18 UTC 版)
評価
このように、ディオクレティアヌスのテトラルキアは313年に幕を閉じることになったが、帝国に様々な影響を残した。4つの地域区分は「道 (praefectura praetorio)」の形式を取って存続し、それぞれプラエフェクトゥス・プラエトリオ(道長官)によって統括されることとなった。道は12の管区(dioecesis)に分割され、その下位に位置する属州を跨がる軍司令官として任命されたマギステル・ミリトゥムにも影響を与えた。
従来から存在していた皇帝権を複数の皇帝で分けるという「コンソルティウム・インペリイ (consortium imperii) 」の概念は帝国の常態となり、皇帝即位への協力者が帝位継承者として任命されるという観念も帝国に広く浸透した。「唯一の正帝」となったコンスタンティヌス1世が死ぬと帝国では再び分担統治が行われるようになり、コンスタンティヌス朝の分担統治時代、ウァレンティニアヌス朝の分担統治時代を経て、東西ローマへの最後の分割とされるテオドシウス1世の息子たちによる分担統治の開始へとつながった。これら皇帝権の分割による帝国の分担統治は制度的には帝国が分裂しているわけではなく、ローマ帝国全土を実質的に支配する単独の皇帝が現れなかっただけで、ローマ帝国はひとつであったことに留意する必要がある。5世紀末に西の皇帝権(西ローマ皇帝)の廃止によって東の皇帝権(東ローマ皇帝)のみになるまで、東西の皇帝はまったく合法的にその皇帝権力を行使し得たのである。
関連項目
参考文献
- Barnes, Timothy D. (1984). Constantine and Eusebius. Harvard University Press. ISBN 0-674-16531-4
- Bowman, Alan (2005). The Cambridge Ancient History, Volume 12, The Crisis of Empire, AD 193–337. Cambridge University Press. ISBN 0-521-30199-8
- Corcoran, Simon (2000). The Empire of the Tetrarchs, Imperial Pronouncements and Government AD 284–324. Oxford University Press. ISBN 0-19-815304-X
- Leadbetter, William Lewis (2009). Galerius and the Will of Diocletian. London and New York: Routledge.
- Rees, Roger (2004). Diocletian and the Tetrarchy. Edinburgh University Press. ISBN 0-7486-1661-6
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