オヤケアカハチの乱 君南風について

オヤケアカハチの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 05:48 UTC 版)

君南風について

「球陽」163号によれば、久米島のノロ・君南風も従軍し、その功績によって代々世襲が認められた。きっかけは首里神なる神の「八重山の神と久米山の神とは、元々姉妹である。もし君南風が官軍に従って八重山にいって諭せば、必ずや信服するであろう」などというお告げであった。言われたとおりにして八重山に行ったところ、賊衆が多くて上岸し難かった。しかし君南風に奇謀あり、竹筏を作って上に竹木を取り付け、焼いて放流させたところ、賊衆はこれにつられて移動し、官軍は上岸できた。さらに宇本嶽君真物神が君南風のところに来て信服した。賊衆もこれを見て服従した。こうして大将軍は人民を鎮撫することができた。帰還後、細疏のほか、奇謀が聖聴に上達し、褒美を貰った。

奇謀云々と「蔡鐸本中山世譜」その他との整合性については一切不明である。あちらではとりあえず19日に上岸したと書かれているが、君南風は全編一貫して無視されている。また聖聴には奇謀だけが達し、宇本嶽君真物神が信服したという主張は無視されている。さらに、二柱の神と交信し、一柱を帰服までさせるなど瞠目すべき成果を収めているが、特に餓死寸前まで祈る必要もなかった点で、真乙姥との違いがみられる。

逸話

アカハチが討たれた結果、八重山は中山に恭順する仲宗根豊見親とアカハチと対立していた石垣の豪族、長田大主の勢力圏に収められることとなった。敗れはしたものの、琉球の侵攻から現地の民俗を守ろうとしたアカハチは、地元の英雄として現在に伝わっているほか、イリキヤアマリ神を伝える御嶽が石垣島に残っている。なお、小浜島には、戦いに敗れたアカハチが逃げ込んだという伝説のある、オヤケアカハチの森がある。

一方、戦功をあげた君南風ノロは、中山より大阿母(一地方の最高位のノロ)に匹敵する格づけで、久米島ノロの最高位の地位を与えられた。加えて勾玉を授けられ、「おもろさうし」にも謡われる英雄となった。この戦争から500年以上たった現在も、君南風ノロは久米島最高位のノロとして久米島の祭祀を司っている。またこの史実から、君南風は勝利の軍神とされ、久米島キャンプをしたプロ野球チームが君南風神殿に参拝することが知られている。

また、石垣からの琉球軍の帰路の安全を祈り、安全な航海のための神託を与えた石垣の神女マイツバ(長田大主の姉)は、その後琉球より褒賞として金のかんざしと現地のノロやユタを統括する八重山初の大阿母職(高級神女職)に任命されるが、大阿母職を固辞し、代わりにイラビンガミ神職(イラビンガミ神に仕える神女)を拝命した。彼女が琉球軍の帰路の無事を願った場所は美崎御嶽となり、石垣島の重要な御嶽となった。また、彼女の墓地にはマイツバ御嶽が作られ、ともに現在も信仰を集めている。

この戦いで石垣島に遠征した将軍の大里親方は、竹富島西塘(にしとう)なる人物を見出し、首里へ連れ帰った。西塘は首里で学問を修めて土木建築家となり、1519年に尚真王が首里城を出るたびに御願(うぐぁん:祈祷)を行う園比屋武御嶽の礼拝所となる石門を建築したことで知られる。その後、八重山を統治する身分(竹富大首里大屋子)として竹富島に戻り、その後石垣島に移って八重山地方の蔵元(琉球王国の地方行政官庁)を置いた。竹富島には園比屋武御嶽の神を勧請して国仲御嶽(フイナーオン)を造成した。この御嶽は八重山で唯一、琉球王府の神につながる御嶽であり、竹富島の村御嶽として国の守り神とされている。彼の死後、竹富島の墓地には西塘御嶽が置かれ、その功績を讃えて現在も信仰されている。


  1. ^ Shinzato, Keiji et al. Okinawa-ken no rekishi (History of Okinawa Prefecture). Tokyo: Yamakawa Publishing, 1996. p57.
  2. ^ 先島側の立場からは琉球(中山)王府と呼ばれる事が多い。また、(統一後の)琉球国王号は琉球国中山王である。
  3. ^ 主に「蔡鐸本中山世譜」と「球陽」160号
  4. ^ 「忠導氏正統家譜」原文は「諸村令定毎丁賦数矣(諸村をして丁毎に賦数を定めしむなり)」人間毎に割り当てを定めた。ちなみに「丁賦」は人頭税の意味。
  5. ^ 「忠導氏正統家譜」「于時玄雅航于八重山嶋諭彼之島酉長曰相共守附庸之職分而定年々貢物之員数而朝見于琉球述欲竭臣子之忠誠之意矣」「竭」とは「尽」と同義。
  6. ^ 稲村「庶民史」pp.215
  7. ^ 「八重山島年来記」「大浜村赤蜂堀川原与申弐人之者変心を企・・・島中之者共押而身方江引入」
  8. ^ 「山陽姓大宗系図家譜」「当島大浜邑赤蜂堀川原二人之賊党対于王府企変心、四ヶ年年貢抑留、島民全部同心」山陽姓の元祖は宮良親雲上長光であるが、その先祖が長田大主の弟・那礼当であるとして、事績を記している
  9. ^ 「長榮姓家譜大宗」「堀川原及赤蜂者二人、絶貢謀叛衆皆従之」長榮姓は長田大主を元祖とする氏族
  10. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.261以後、「童名がーらの起源と其の継承」と題する章節で、がーら(加和良、加阿良)の実用例が多数挙げられている。
  11. ^ 宮古島旧記による表記。「忠導氏家譜正統」では「根間角嘉良天大之大氏」。かわらもがーらも同じである。天大は天太の表記がより一般的で、当時の首領格の称号。根間大按司の息子、目黒盛豊見親の父。空広の6代前の先祖。
  12. ^ オヤケアカハチ”. www.zephyr.justhpbs.jp. 2019年10月19日閲覧。
  13. ^ a b 「球陽(161号)」
  14. ^ 「山陽姓家譜(1730年代に成立)」を根拠として、仲間満慶山も含めた。
  15. ^ 長田大主の行動は以下による。「球陽(160号)」「八重山島年来記」「長榮姓家譜大宗」「山陽姓家譜」
  16. ^ 大浜pp.81。「元祖・石垣親雲上英乗・童名石戸能。彼の父は、満慶山の長子、嘉平首里大屋子・童名佐嘉伊の長子、嘉平首里大屋子童名満慶山である」
  17. ^ 稲村「倭寇史跡」pp.294
  18. ^ 大浜pp.83。仲間満慶山についての系図訂正の請願書。請願者は10名だが、その中に憲章姓大宗英乗家の者がいないことを、大浜は指摘している。作成年代については「巳十一月」としかなく、請願者の役職を調査した上で、大浜が推定している。この文書は満慶山から英乗までの4代を次のように記している。「元祖嘉平首里大屋子英極満慶山。二代嘉平首里大屋子英潔童名石戸能。三代嘉平首里大屋子英文童名真蒲戸。四代頭石垣親雲上英乗童名石戸能」これには三つの問題点がある。第一に、満慶山の肩書が何故か首里大屋子になっているが、これは乱以後に生まれた概念である。第二に、二代と三代の童名が、「大宗家譜」のものと全然異なる。第三に、元祖・二代・三代に、「大宗家譜」では書かれていない名乗がでっちあげられている。
  19. ^ 高良pp.19
  20. ^ 高良pp.234
  21. ^ 「忠導氏家譜」「弘治十三年庚申、大将を遣わし征伐之時、玄雅父子、官軍之指導を為す也」/「球陽」160号「・・・大小戦船四十六隻を撥し、其の仲宗根を以て導と為し、」
  22. ^ 大浜pp.54「銭姓家譜」抜粋による。銭姓一世。唐名銭原
  23. ^ 「球陽」159号
  24. ^ 人数は「球陽」159号による
  25. ^ 長田云々については正確な日は不明。「八重山年来記」他多数に載る。
  26. ^ 「蔡鐸本中山世譜」の現代語訳を著している原田禹雄は、この箇所を「首を出して」と訳しているが、これは完全な間違いである。原文では「首出」と書かれているので、「首」は「出」の目的語では有り得ない。「首」には「はじめて」と訓読する副詞としての用法がある。
  27. ^ 大里の考えは「球陽」160号に依る。
  28. ^ この一文は「球陽」160号に基づく。「赤蜂、首尾相応ずる能はず。官軍勢に乗じ、攻撃すること甚だ急なり」
  29. ^ 「即ち仲宗根豊見親を擢んでて宮古頭職と為し、亦真列金豊見親を陞せて始めて八重山頭職と為す。真列金、衿驕自恣にして人民を暴虐す。彼の島の人民、みな疏文を具し、豊見親を琉球に告訴す。即ち頭役を革め去り故郷に摘回す」
  30. ^ 「忠導氏正統家譜」
  31. ^ 「八重山島年来記」「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  32. ^ 全て「山陽姓家譜」による。シシカトノの子供については「球陽(161号)」がより詳しい。ミツケーマの子供については、佐嘉伊が嘉平首里大屋子になった事が家譜から確認できるが、他7人は不詳。
  33. ^ 「球陽」160号では真乙姥、古乙姥
  34. ^ 長田大主の母と同名
  35. ^ 「長榮姓家譜」「球陽(160号)」
  36. ^ 「球陽(160号)」


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