オスマン建築
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主要建築物
- ハジュ・オズベク・ジャーミー(イズニク 1333年完成)
- ムラト1世のキュッリイェ(チェキルゲ 1366年完成)
- イーサーベイ・ジャーミー(セルチュク ディミシュクリ・アリ設計 1375年完成)
- イェシル・ジャーミー(イズニク 1378年完成)
- ニリュフェル・ハトトゥン・イマーレティ(イズニク 現イマーレティ博物館 1388年)
- バヤズィト1世のキュッリイェ(ブルサ 1390年頃起工・1395年完成)
- ウル・ジャーミー(ブルサ 1396/1397年起工・1399/1400年完成)
- エスキ・ジャーミー(エディルネ 1403年起工・1414年完成)
- イェシル・ジャーミーとイェシル・テュルベ(ブルサ 1412/1413年起工・1419/1420年完成)
- ウル・ジャーミー(ブルサ 1421年完成)
- ムラディエ・ジャーミー(ブルサ 1426年完成)
- ユチュ・シェレフェリ・ジャーミー(エディルネ 1438年起工・1447年完成)
- ルメリ・ヒサル(イスタンブール 1453年完成)
- イェニ・サライ(イスタンブール 現トプカプ宮殿博物館 1459年から1465年に起工)
- イェディ・クレ(イスタンブール 1463年起工・1470年完成)
- イェニ・サライのチニリ・キョシュク(イスタンブール 1472年完成)
- バヤズィト2世のキュッリイェ(エディルネ ハイレッティン設計 1484年起工・1488年完成)
- ベヤズット・ジャーミー(イスタンブール 1501年起工・1506年完成)
- シェフザーデ・ジャーミー(イスタンブール ミマール・スィナン設計 1543年起工・1548年完成)
- スレイマニイェのキュッリイェ(イスタンブール ミマール・スィナン設計 1550年起工・1557年完成)
- セリミィエのキュッリイェ(エディルネ ミマール・スィナン設計 1569年起工・1574年完成)
- ソコルル・メフメト・パシャ・ジャーミー(イスタンブール ミマール・スィナン設計 1570年起工・1572年完成)
- イェニ・サライ・ハレムのムラト3世寝室(イスタンブール ミマール・スィナン設計 1578年完成)
- アフメディイェ(スルタンアフメット・ジャーミー)(イスタンブール メフメト・アー設計 1609年起工)
- イェニ・サライのバーダート・キョシュク(イスタンブール ハサン・アー設計 1623年起)
- ホシャップ城館(ホシャップ 1643年完成)
- イェニ・ジャーミー(イスタンブール 1663年完成)
- イスハク・パシャ宮殿(ドウバヤズィト 1685年起工・1784年完成)
- アズム宮殿(ハマー 1742年完成)
- アズム宮殿(ダマスカス 1749年完成)
- ヌールオスマニィエ・ジャーミー(イスタンブール シモン・カルファ設計 1754年起工・1757年完成)
- ベイト・エッディーン宮殿(ベイト・エッディーン 1810年)
- ヌスレティエ・ジャーミー(イスタンブール クリコル・バルヤン設計 1823年起工・1826年完成)
- ドルマバフチェ宮殿(イスタンブール ガラベットおよびニコオス・バルヤン設計 1843年起工)
- ユルドゥズ宮殿(イスタンブール 1850年完成)
- ^ a b J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p237
- ^ J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p218, p237。初期のオスマン建築の特徴であるスクィンチによって支えられるシングル・ドームと、交差軸イーワーン・モスクは、ともにセルジューク建築に遡る。石と煉瓦を交互に積層する壁はビザンティン建築に起源があるが、その採用方法はビザンティン建築とは異なる。しかし、イズニクにおいて、ビザンティン建築との関連を指摘する次のような論文もある。Similarities between Ottoman,Local and Byzantine architecture (PDF)
- ^ N.ペヴスナー編『世界建築事典』p306。オスマン帝国においてアヤソフィアは常に賞賛され続け、建築家スィナンはいくつかの作品については確実に自らの建築の源泉としていると考えられる。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p355。
- ^ 脚注1・2を参照。ギュル・ジャーミー、エスキ・イマレト・ジャーミー、フェナリ・イサ・ジャーミーなど、東ローマ帝国の教会堂のいくつかはオスマン帝国の時代にモスクに改装されており、そのほかアヤイリニなど、倉庫や武器庫として用いられた建物もある。ただし、これらの建物がオスマン建築にどの程度の影響を与えたかは定かでない。ハギオス・アンドレアス聖堂のように、改装によってビザンティン建築とは異なった印象の建築物になってしまったものもある。
- ^ セリム1世によって約1000人が移住させられ、建築の装飾にも用いられる陶器の発達に寄与した。
- ^ マルマラ海周辺に居留。イランなどの西方貿易をほぼ独占していた彼らも商業、金融業の担い手となった。また、東ローマ帝国の時代から高度な建築技術を保持していたため、建築業にも携わった。末期オスマン建築の担い手となるバルヤン家もアルメニア人である。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p269-p270。
- ^ 現在のゲジェコンドゥと呼ばれる住宅建築については、ジハンギリ・イステッキ「ゲジェコンドゥ我々の村」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p52-p65を参照。
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p329-p330。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p14-p16。
- ^ 山下王世「オスマン朝イスタンブールの給水建築」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p78。
- ^ 山下王世「オスマン朝イスタンブールの給水建築」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p80-p84。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p57-p58。階別の住み分けを行う場合、ハレムは眺めの良い最上階に充てられ、下階をセラムルクとした。しかし、水場などはセラムルクの一部かその下の階に設けられるので、水場に至る急勾配の階段、あるいはセラムリクを通過するだけの階段室が設置されるなどした。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p58-p59。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p49-p52。
- ^ 山本達也『建築探訪8トルコの民家』p52-p54。
- ^ 鶴田佳子「トルコのバザール空間と広場」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p11。
- ^ 鶴田佳子「トルコのバザール空間と広場」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p13。
- ^ 宍戸克美「イスタンブールの喫茶文化」『トルコ・イスラーム都市の空間文化』p22-p23。
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